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写真家  小松 健一(埼玉県朝霞市)



【略歴】岡山県生まれ。母の故郷・東吾妻町で育つ。第2回藤本四八写真文化賞、2005年日本写真協会賞年度賞。社団法人日本写真家協会会員。著書、写真展多数。



矢島保治郎その(3)



◎探検後押しした地元紙



 矢島保治郎(1882~1963年)のことが故郷の上毛新聞に初めて記事として登場するのは、明治42(1909)年2月5日のことである。

 見出しは「世界無銭旅行者の出発」となっており、副題に「矢島氏と朝日新聞記者」と付いている。前日の2月4日付東京朝日新聞が掲載した記事とほぼ同様の内容を地元群馬県内に報道したものと推察できる。

 矢島が計画立案し、実行しようとした世界無銭旅行は、当時の日本でもさすがに注目を浴び、話題を呼んだのであろう。

 東京朝日新聞が最初に明治41(1908)年11月25日付で「日本力行会員の世界無銭旅行」の見出しで「聞くさへ血湧き肉躍る痛快なる壮図を企てたる人こそあれ。…水滸伝の梁山泊を今見る如く豪傑青年…」で始まる記事を載せている。

 そして出発に際しては、前出の東京朝日と横浜貿易新報(2月4日付)が「世界無銭旅行者は白襷隊の勇士」の見出しで大きく記事を載せた。しかし、横浜港を出発してからの矢島の動向を報じた新聞は唯一、上毛新聞だけであった。

 明治42年3月11日付3面トップに「世界無銭探検記―上海よりの第二通信」という見出しで長い記事が掲載された。矢島が上海から上毛新聞社宛てに送ったリポートであるが、その冒頭に記者自身が一筆書き添えている。

 僕はこの短い文を読んで、当時の上毛新聞社内にも矢島の行動に対して共感し、声援を送っていた記者がいたことを知り、胸が熱くなる思いがした。それは見出しの「世界無銭探検記」にも表れているし、「…記者に対する書信中在郷辱知諸君に余の健在を報ぜられたしとあれば茲に付記す。」という文章にも読み取ることができる。

 矢島が付けていた日記の中にも上毛新聞の文字はしばしば出てくる。その中で僕が注目したのは、明治42年5月2日の日記にある「上毛新聞社ヨリ送付上毛新聞デアツタ。世界無銭旅行探検家ヨリノ通信トシテ漢口ヨリ北京ニ至ル一話ヲ載テアリ。」という記述だ。

 これによれば3月11日付の次の第3通信が載っている上毛新聞があるということだからだ。当時の紙面を調べてみたいと思い、群馬県立図書館、前橋市立図書館、上毛新聞社等にあたったが、該当する紙面は所蔵していなかった。

 最後に群馬県立文書館にあるということがわかり、明治42年1~5月の紙面を閲覧することができた。

 しかし、残念ながら矢島の日記に書かれた上毛新聞に載った第3通信の記事を見つけ出すことはできなかった。でも僕は100年以上前に地元のメディアとして上毛新聞は、上州出身の無名の青年の行動を報道していたことに誇りを感じたのである。






(上毛新聞 2011年3月13日掲載)