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県立女子大非常勤講師  新井 小枝子(藤岡市中大塚)



【略歴】藤岡市生まれ。県立女子大卒、東北大大学院修了。博士(文学)。専門は方言学、日本語学。近著に『養蚕語彙の文化言語学的研究』(ひつじ書房)。



忘れてはいけないこと



◎学ぶべき先人のくらし



 片品村に、イドガワ(井戸川)ということばがある。「いど(井戸)」と「かわ(川)」がくっつき、ひとつの語になったものだ。この語をもたない私にとっては、意外な組み合わせである。片品村のイドガワは、飲料水や風呂に使う生活の〈水〉を調達する場所のことで、文字どおりの〈川〉をさす。

 水道が引かれる前、日本中どこでも、〈水〉は「汲む」ものだった。川で、池で、掘り井戸で。天秤棒をかつぎ、毎日運んだ。

 このような生活の痕跡は、各地の方言に残っている。片品村のイドガワも、そのうちのひとつ。イドガワは、古語でいう「ゐ」と「と」と「かわ」が結びついたもの。「ゐ」は「泉や流水から水を汲み取るところ」。「と」は「場所。ところ」。「かわ」は、「天然の水が帯状に流れているところ」。私の知る「いど」は、もとは「水を汲み取るところ」という意味であり、〈掘り井戸〉あるいは〈釣り井戸〉をふくむ広い意味をもつ語だった。片品村のイドガワは、意外どころか、必然的な組み合わせで成ったことばだったのだ。〈水〉を汲みとる場所は、帯状に〈水〉が流れる、その〈川〉だったということを示す。

 かつて、〈川〉といえば、飲料水をはじめとする、生活用水が流れるきれいなところ。汚れた水の流れるところではなかった。おむつや洗濯物も、決まりよく場所を守り、流れの下(しも)で洗った。そこには自らにもかえってくる、隣人への心くばりがあった。汚れた水も、捨てずに使った。不便な時代にあって、言わずもがなの規則をあたりまえのように守り、ものを大切にするくらしぶりが目にうかぶ。

 一方、私たちの〈水〉は、蛇口をひねればあたりまえ。店にはよりどりみどりのペットボトル。そんな時代にあって、私たちは、忘れていること、奢(おご)っていることがたくさんあるのではないだろうか。

 今、東北地方の巨大地震被災地では、〈水〉をはじめ、生活に必要なすべてのものがままならない。着る、食べる、住まうという、ごくあたりまえのことが不自由になっている。

 被災地から伝わってくる情報を前に、私の立つ「今、ここ」で何ができるのか。折れそうになる心を立て直し、光のある方を向きたいと思う。実際に救助に向かっている人たちを、しっかり支える行動をとろう。被災地のために、「今、ここ」でできることを、精いっぱいやるしかない。〈水〉を大切に使うこと、節電すること。私たちにもやれることはある。時が経つにつれて、それはもっともっとわかってくるはずだ。

 イドガワということばをつくりだした先人たちのくらしぶりに学び、被災地のためにできること、たしかな未来に向かってやるべきことを、静かに落ち着いて考え、実行にうつそう。







(上毛新聞 2011年3月18日掲載)