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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


黒船来航と高崎藩



◎気概伝える「稲妻の鎧」



 昨今“第3の開国″などと騒がしいが、幕末の開国事件も対応に大慌てであった。しかし、降って湧いた話ではない。異国船は何年も前から頻繁に日本沿岸に出没し、幕府は多くの藩に江戸湾の防備を命じる一方、米国使節の来日情報も事前に伝わっていたと言われる。ただ、相手の意図を正しく把握していなかった故の右往左往であった。

 さて高崎藩だが、海なし国の上州にあって飛び地(城下から遠く離れた領地)が千葉県銚子にあり、海に面していたので黒船来航前から沿岸防備を行っている。『高崎藩近世史略』から時の記述を見てみると。

 嘉永4年正月、藩主松平(大河内)輝聴公(24歳)は祐筆格以上の軍装を検査し、背旗を作ることや禄ろく50石以上の者は甲冑(かっちゅう)を作ることなどを徹底、3カ月後に演習を行った。続いて5月には、家老の海防掛堤順美(わが高祖父)らを銚子に派遣し、郡奉行深井八之丞(深井英五さんの父)らとともに領内の海岸を巡視、地理測量、砲台の修理新築、巨砲の新鋳造など防御を一層厳重にさせている。

 しかも、公は海防を家来任せにせず、自らも幕末三大兵学者と称された家臣市川一学(北海道松前城の設計建設者)を召し連れ、指揮を執った。面白いのは、戸内に酒餅を備え、日暮れには全戸に燈(あかり)を懸けさせるといった古風な対応をさせている。領民を守護できるか案じられながら、5日間滞在したという。

 嘉永6年6月8日、ついに黒船が浦賀に来た。幕府は諸藩に命じておのおの要害の地を警衛させ、高崎藩も出兵の準備を行っている。大砲数門を増加し、諸士の銃陣を中屋敷で訓練させ、藩主自ら検閲した。しかし、戦乱のない時代を過ごしてきた武士は、武道を忘れた官僚に成り下がり、武士のたしなみは疎(おろそ)かになりがち。ようやく異国船到来を機に武に目覚め、江戸では剣術道場が活況を呈していた。

 この緊急の時に際し、公は伝来の物を修復し、鎌倉時代をほうふつさせる胴丸型の黒漆塗本小札紺絲威(ほんこざねこんいとおどし)大鎧(よろい)を新調させた。大河内家は源頼政卿を遠祖とする武勇の家柄につき、家門の誉れを示すため藩主が着用すべき正式な大鎧を作ったと言われる。完成した際には2日にわたって家臣らに縦覧させた。この大鎧が明治になって宮元町の頼政神社に奉納された「稲妻の鎧」である。高崎市の文化財に指定され、現在は県立歴史博物館に常設展示していただいている。高崎市に史料文化財を保存展示する博物館がない故の寄託である。

 高崎は江戸から25里も離れていたが、幕閣を務める藩主と中央で活躍する家臣らは時代の情勢を十分承知していた。ただ、今思えば軍備などは200年前の様相だし、大鎧も時代掛かったものだが高崎藩の気概が伝わってくる。






(上毛新聞 2011年3月26日掲載)