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建築家・著述家  武澤 秀一 (東京都国分寺市)



【略歴】前橋市出身。東大卒。工学博士。1級建築士。同大、法政大で講師を兼任後、現在は放送大学非常勤講師。著書に「伊勢神宮の謎を解く」(ちくま新書)など。


葬儀のかたち



◎「シンプル」こそ「豊か」



 ご記憶の方も多いと思うが昨年、『葬式は、要らない』という本がベストセラーになった。東京などでは「直葬」といって、葬式を経ずに火葬にふすケースがかなりの数に達しているという。本当に葬式は要らないと思っている人は少ないだろうが、従来の葬儀のあり方に疑問を抱く人が増えているとはいえそうだ。

 昨年の大みそかに父が永眠した。享年96歳の長寿だったが、時は選べないと痛感した。火葬場が開くのは三が日が明けてからと聞いていたが、前橋では正月3日から稼働していた(ドライアイスによる処置が1日短縮できた)。そして葬儀は身内のみの「家族葬」とあいなった。故人は生前に洗礼を受けており、式はキリスト教になる。

 新年早々という時期、家族葬という形式、さらには未経験のキリスト教式と、遺族にとって何から何まで初めての経験であった。「おくやみ」欄への掲載を辞退し、身内だけで葬儀を行うのは社会に礼を欠くのではないか…。思いはさまざまに交錯する。もちろん社会との関わりの中に人生はある。だが、生まれた時と同様に、逝く時も家族に囲まれてひっそりと―。一生のあり方として、それがいいようにも思われる。父の場合、社会の第一線を退いてから長い歳月がたっていたのも大きかった。

 葬儀場では、洗礼を授けた神父から送る言葉をいただき、賛美歌を会葬者全員で斉唱した。火葬場でも賛美歌を歌い、故人を送った。そして、親族のそれぞれが思い出や今の心境などを述べ合った。さまざまな角度から故人の像が浮き彫りにされ、そこであらためて知る故人の横顔があった。また、語る親族の、日頃気づかぬ素顔も垣間見た。遺族間の絆も深まったように思う。

 多くの場合、葬儀において遺族は会葬者への対応に追われ、故人を送る心情は二の次にならざるを得ないのが実情ではないか。終わってみれば虚脱状態というのでは本末転倒であろう。家族葬は一面、閉鎖的かもしれないが、会葬者が全員身内だけに、心置きなく故人を送ることができた。葬儀というと、とかく会葬者の数や花輪の豪華さが話題になるが、送ることの本来の意味とは関係ないと思うことだった。

 故人を送る―。このことをもっとシンプルに考えたい。父の葬儀では、遺族にとり新しいことづくめで戸惑いもあったが、振り返ってみれば、いいかたちで送ることができたと感じている。

 今年は例年になく寒い冬だった。そして気のせいか、空も一段と高いように思えるのだった―。

(この度の大震災により落命された方々のご冥福をお祈り致します。合掌)





(上毛新聞 2011年3月29日掲載)