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群馬詩人クラブ代表幹事  樋口 武二(富岡市田篠)



【略歴】ミニコミの編集・発行に携わる。群馬詩人クラブの代表幹事、コミュニティマガジン「い」編集発行。2005年に自然保護活動で「群馬銀行環境財団賞」を受賞。


先輩詩人の教え



◎「書く」ことの大切さ



 若いころに同じ同人雑誌で世話になり、その後すこし疎遠になってしまっていた先輩が、先日亡くなった。群馬を代表するような詩人で、病んでいたのは承知していたのだが、忙しさに追われて、顔をみせる余裕もなく「遊びに来いよ」という年賀状だけがたまっていた。葬儀には懐かしい顔や知った顔もあって、あらためてその人の死が惜しまれてならない。十代の終わりから二十代の後半にさしかかる生意気盛りのころではなかったかと、曖昧な記憶を反芻(はんすう)しつつ自らの歩いた時間を思い出している。

 その先輩詩人に教えていただいたのは、「書く」ということの大切さである。好きな作品があれば、一晩かけてでも書き写し、自分の血肉にするべきだと、そんなことも言われたことがあった。生半可な気持ちで、文学に臨んではイケナイのだと、書くという行為がそのまま生きるということでもあると教えられたのだった。現在の、「言葉の軽さ」「書くという行為への軽さ」を思うときに、やはりここが原点であると言わざるを得ないのだ。そう肝に銘じている。

 若者文化ということが言われて久しい。いまやコピー文化という言葉が当たり前になっていて、辞書を引かずにインターネットで検索して、その文章をそのまま使用することに何の抵抗感もないという若者が多いと聞く。それどころか文学賞などには他人の作品が盗用され、そのまま受賞したというニュースがあるくらいなのだ。まさに「言葉」というものの軽さ、「書く」ということへの恐ろしいくらいの無恥が新しい世代にはあるらしいのだ。

 手紙と違って、インターネットへの書き込みは緊張感がない。うっかりして言わなくてもよいことまでも書き込むなどという話は、けっこう耳にする。そうしたことは、メールにも言えることで、気安く書ける分だけ、気もゆるみがちになるのだろう。「書く」ということの「軽さ」もここらにあるのかもしれない。

 こんなことを書けば、「物書き」という人種の八つ当たり行為とも取られかねないが、本来、物を書き発表するという事象は、大切なことなのだ。何人もこれを阻むことは許されない。ただし、他人様の人格や暮らしに影響のないようにという気配りが前提の話になるのだが。気安く他人のものを借用したり、出典の分からないようなインターネットの書き込みを信じたり、「軽いホンの出来心」は慎みたいものである。

 「言葉」そのものや、「書く」という行為が、軽くなってしまったことは悲しい。せめて、文章のコピーはやめましょう、なるべく慎重に言葉を選びましょう、とだけは言っておきたい気がする。物書きとしてではなく、社会人としての一般常識として、それは必須だと思うのである。





(上毛新聞 2011年4月24日掲載)