視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
写真家  小松 健一(埼玉県朝霞市)



【略歴】岡山県生まれ。母の故郷・東吾妻町で育つ。第2回藤本四八写真文化賞、2005年日本写真協会賞年度賞。社団法人日本写真家協会会員。著書、写真展多数。


矢島保治郎その(4)



◎チベットで高い評価



 上州出身の矢島保治郎(1882~1963年)が単身「世界無銭探検」に出発した明治42(1909)年を、同時代に生きた郷土が生んだ日本を代表する詩人、歌人は何をしていたのか見てみたいと思う。まず萩原朔太郎は、第六高等学校(岡山)の第2学年進級に落第し、帰省して伊香保温泉などに避暑。土屋文明は、高崎中学校を卒業し上京、伊藤左千夫のもとに寄宿しながら、そこの牛舎で働いていた。

 ちなみに石川啄木は、北海道漂泊の旅を前年にピリオドを打ち上京、ようやく東京朝日新聞社の校正係として入社した年であり、宮沢賢治は、花巻の尋常高等小学校を卒業、県立盛岡中学校へ入学した年であった。そうした時代に矢島青年は、上州の片田舎からロマンと大志を抱いて勇躍、日本を旅立ったのである。

 では実際に6年間余り滞在していたチベットにおいて、矢島保治郎の評価はどうであろうか。数少ない資料から探ってみよう。矢島の生誕100年記念として昭和58(1983)年に、チベット文化研究所から出版された矢島保治郎著『入蔵日誌』の巻頭に寄せられた「ダライ・ラマ法王猊下(げいか)メッセージ」という文章がある。その一節に「20世紀初頭チベットを訪れた矢島氏は、チベット民族との交流を求めて入蔵した最初の日本人ではありませんが、もっとも長く滞蔵した一人であり、チベット軍隊を育成する為(ため)、大変貢献された方です」とある。この文は、ノーベル平和賞受賞者でもあるダライ・ラマ14世が記したものであるが、矢島と深い信頼関係を結んでいたのは、13世ダライ・ラマであった。

 しかし、矢島に対するチベット仏教・法王の高い評価は、100年経過しても変わっていないという一つの証明であろう。

 またチベット人学者W・D・シャカッパは、その著書『チベット政治史』(ロンドン出版、1967年刊)の中で、矢島保治郎に関して3カ所において記述している。その一部を紹介したい。

 「一九一二年、日本の退役軍人、矢島保治郎がラサを訪れた。チベット軍の一隊が彼に委託され、彼はその隊を日本式軍事教練で訓練した。六年間におよぶ滞在中、矢島はチベットの風俗習慣を受け入れそれに親しんだ。彼が建設したダライ・ラマ近衛隊司令部は伝統的な日本スタイルのものであった」

 これは、矢島が大正2(1913)年にラサ市街を測量し地図を製作したのを注目したチベット軍参謀総長サロンノ・チヤンタの知遇を得て軍事顧問となった。

 そして近衛隊隊長となり、ダライ・ラマの巡幸の際は、常に兵を率いて護衛にあたっていた。そうした事実をシャカッパは記録しているのである。







(上毛新聞 2011年5月8日掲載)