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古書店経営  樋田 行夫(前橋市岩神町)



【略歴】前橋高、法政大学法学部卒。東京・高円寺都丸書店にて古本屋修業。帰橋後、実家の大成堂書店で群馬の古本屋を学ぶ。1977年、大閑堂書店開業。


朔太郎研究



◎戦後の文化活動が結実



 国民生活全てが戦争を遂行することのみに向けられていた1943(昭和18)年、前橋市立図書館長に就任した渋谷国忠氏は「非常時にこそ本を読もう」との標語を図書館入口に掲げた。その意味するところは、何も読書することだけに限らないが、人間どのような状況になっても本を読むという作業を重ねることで知的要求を満たす度合いがより一層深くなり、さらなる知的欲求が生じる結果として知的体力、人間力の増進が図られ現実の状況をより良い方向に進めていこうとする精神的支柱の太さと重みを得られると考えたのであろう。

 45年3月前橋市立図書館は憲兵隊の官舎となり、臨江閣に移転した。だが4月には臨江閣が連隊区司令部庁舎となったため桃井国民学校へ移転、5月開館。そして8月5日夜、米国のB29による前橋大空襲で市部の大半が壊滅したが、図書館は幸い類焼を免れた。

 渋谷氏は図書館業務のかたわら、敗戦の翌年から54年まで多くの県内文化人を講師に招き「前橋市民大学講座」を開いた。53年「萩原朔太郎展」開催。60年には「萩原朔太郎祭」にちなみ群馬会館ホールで三好達治、蔵原伸二郎、伊藤信吉、中野重治、萩原葉子各氏の講演会を開催した。また朔太郎作曲の「機織る女」を初演。64年5月10日に第1回「萩原朔太郎忌」記念の会を開催。その夜の記念夕食会で「萩原朔太郎研究会」の発足を発表し以後事務局長として尽力した(以上萩原朔太郎研究会報19号より)。戦後の混乱の中で高い文化の灯を掲げて行ってきた文化活動はここに結実した。

 朔太郎を研究しつつ(没後、萩原朔太郎研究として1冊にまとめられ思潮社より刊行される)会誌を発行し、朔太郎の書斎の復元移築、書誌の制作など会の運営と顕彰を行った。特に作品、書簡、原稿、色紙、写真等あらゆるものを蒐集(しゅうしゅう)して、研究の基礎を提供し、深化させる「資料センター」として前橋市立図書館の存在を全国に広めた。膨大な資料群と朔太郎研究会事務局は現在、前橋文学館へ引き継がれている。

 渋谷氏は69年10月13日、63歳で逝去。志は当時図書館職員(後に館長)であり、詩人である野口武久氏に引き継がれた。氏は各種事業に精力的に取り組み、数々の朔太郎研究書を刊行し啓蒙に努めていたが、昨年73歳で亡くなられてしまった。

 渋谷氏の植えた木は野口氏の丹精で大地にしっかりと根を張った。その枝が大きく広がることを願う。

 このような、人間の営為である文化を守り育て上げていく上での構想力の豊かさが発想と創造力と組織力と相まって、どんなにか勇気と希望が生まれたことであろう、考え深いものがある。







(上毛新聞 2011年5月11日掲載)