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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


和歌の城下・高崎



◎歌人の遺伝子受け継ぐ



 お金持ちなどが慰みに覚えた芸を“殿様芸”と揶揄(やゆ)するが、本当の殿様の学術や芸事は一派をなし、城下に色濃く影響を残した人もある。例えば松江藩主松平治郷の茶道は、その号から「不昧(ふまい)流」として今日に続いている。それだけでなく、収集した茶器の銘品や銘菓は松江市が文化の街と評される礎となった。古河藩主土井利位は日本最初の雪の科学書『雪華図説』を著し、この“雪の殿様”にちなんで古河の市立学校の校章や商店街の街灯に雪の結晶が使われている。

 さて高崎は、殿様が何家も入れ替わったためか、大名家の影響力が薄いのは否めない。が、高崎大河内松平家も歌人として名を残された三代から五代の藩主、全国の奇石を収集し『奇石録』を著された九代輝聴公といった文化人が藩主を務めた。ただ、和歌は茶の湯のように茶器や菓子といった広がりはなく、鉱物学も派手さがないため、日本文化揺よう籃らん期の“江戸の香”が見えにくい。

 とは言え、“和歌の城下高崎”を自慢できる材料は残っている。まず著名な歌人を祭神とした神社が3カ所もある。下佐野町の定家神社と乗附町の家隆神社は共に『新古今和歌集』の撰者藤原定家と藤原家隆が祭神。「百人一首」で有名な歌聖定家が詠じた「駒とめて袖打払うかげもなし佐野の渡の雪の夕暮れ」と、近くの「佐野の舟橋」とを結びつけ改称したと言われる定家神社には、三十六歌仙の一人「在原業平歌集」などの社宝が伝わっている。

 もう1社は大河内家初代藩主輝貞公が、遠祖である平安時代後期の武家・歌人源頼政卿を祀(まつ)って高崎城内に建立した頼政神社である。県重文の「諸大家連歌帖」他多くの和歌が奉納されている。その理由は、頼政卿を人一倍敬う三代輝高公が、堂上派歌壇(武家を中心とした和歌師範冷泉家門人の集まり)の中核的存在であったことによる。公家衆と共に、鶴岡・姫路・長岡など譜代雄藩から長州や土佐など外様まで、藩主の歌が数多く連なる奉納和歌にその一端がうかがえる。

 殿様だけでなく家中にも多くの歌人がおり、藩を挙げて歌詠みの文化が浸透していた。特に宮部義正は、冷泉家中興の祖十五代為村から門下第一といわれた実力者で、“関東の公家”と称されたが、後に藩の重役を辞して幕府の和歌所に入り将軍の歌道師範になっている。四代輝和公、五代輝延公の代にも及んでいたが、その後の殿様が短命のこともあり歌道文化が途切れてしまった。

 だが、明治以降、高崎藩領から土屋文明、吉野秀雄、田島武夫、原一雄らの歌人が輩出し、和歌の遺伝子はつながっているようだ。殿様たちが残してくれた歌の史料を展示する施設があれば、高崎の和歌文化を盛り上げることができるのだが。






(上毛新聞 2011年5月21日掲載)