視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
建築家・著述家  武澤 秀一(東京都国分寺市)



【略歴】前橋市出身。東大卒。工学博士。1級建築士。設計活動とともに東大、法政大で講師を兼任。現在は放送大学講師。著書に「伊勢神宮の謎を解く」(ちくま新書)など。


「3・11」復興の課題



◎「豊かな清貧」流れ加速



 3月11日、東日本を大地震・大津波が襲った。かつて訪れたことのある地の、目を疑う惨状。巨大なうねりに流された人為の一切。大地と瓦礫(がれき)と海の織りなす何もない光景。色も形も音も消えた現実に言葉を失う。2カ月が経過した5月10日現在、死者1万4949人、行方不明者9880人…。数字の背後から無数の悲嘆の声が聞こえ、胸の奥底で、くぐもり沈殿する。緊急事態の中、人々を助けようと命尽きた殉職者たちの名を胸に深く刻み込もう(合掌)。

 大津波に襲われた原発。拡散する、見えない厄災の恐怖。今も身を賭して、制御のきかない原発と格闘する方々がいる。命がけの行為に頭こうべを垂れよう。

 3・11以降、行事自粛の風潮が広がった。これは犠牲者に哀悼の意を表する明確なかたちであり、社会が培ってきた文化である。花見行事の「自粛」を呼びかけた都知事発言が話題となった。満開の桜にさまざまな思いをはせる、あるいは散りゆく花びらを無心に追う。その下で静かに酒を酌み交わすのもいい。問題は飲めや歌えの醜態、これだけは慎みたいと思った。

 もちろん、復興という課題が待っている。直接被災された方が自ら「がんばろう」と意気盛んなのは頼もしい。しかし、なお行方不明者が1万人に近いということは、遺体を確認できずに心落ち着かない方々がまだ何万人もおられる。元気を出そうにも、なかなか出ないという方も少なくないはずだ。

 このような状況下、被害を受けなかった多数派が外野席(主にテレビ・ラジオやネット)から「がんばれ」を連呼するのは、いかがなものか。深刻な被災者を置き去りにする、「復興」という名の見切り発車になりかねない。阪神大震災の経験から「悲しむことは大事」という精神病理学者の指摘がある。実際、「がんばれって言わないで」という福島県の主婦の新聞投書があった。同様の声はネットにも見られる。被災された方々はもう十分に頑張っておられるのだ。善意から出た言葉であっても、逆の作用をなすこともある。肝に銘じたい。

 もっとも、自粛か復興かは表面的なこと。本質はもっと深いところにある。悼いたむ心をもち続けつつ、来し方を振り返ろう。これまで当たり前と思っていた価値観・ライフスタイルのままでよいのか? 経済は大事だが、経済より大事なものがあるのではないか? 

 昨年12月3日付本欄で立てた問い―豊かさの新基準―が、あらためて新たな相貌をもって現れてくる。「豊かな清貧」への流れが加速されるのは間違いない。3・11以降の日常ならざる日常を、おのおのの道において模索しつつ生きることが求められているのだ。この過程なしに「復興」などありえないと思うのである。






(上毛新聞 2011年5月24日掲載)