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◎農業は知識集約型産業 上毛かるたで「老農 船津伝次平」とうたわれる郷土の偉人について、出身地の旧富士見村や前橋市近辺では、弱冠27歳で名主に選ばれ活躍した在郷時代の足跡(赤城山植林の松など)が今も残されており、知る人は多い。しかし、駒場農学校(現東大農学部)や中央農界での功績や評価については、あまり知られていない。 1877年、彼は明治政府の全国公募に対し県の推薦を受け、ただ一人選ばれて46歳で駒場農学校の農場教師に赴任する。駒場農学校時代には横井時敬(農政・農学)や酒匂常明(農芸化学)、佐々木忠次郎(養蚕・栽桑学)ら多くの著名な学者・指導者を育成した。85年に駒場農学校の教師を辞め、農商務省の甲部巡回教師となり、その後、北区西ケ原の農事試験場で農事改良に従事。98年3月帰郷、同年6月に66歳で没している。 巡回教師や農事試験場時代には全国を巡り、農談会などで農事改良指導や講演を行い、府県農事試験場の設置等を奨励、近代農業・農学の発展に多大な貢献をした。 在郷時代、彼は「太陽暦耕作一覧」を作成し農作業の適期実施を指導。「桑苗簾伏方(くわなえすふせのほう)法」や「養蚕の教」で桑苗簡易増殖や養蚕を奨励したほか、稲作や園芸作物などの技術改良や指導も行っている。これらの実績を背景に駒場農学校の農場で、西欧農法と比較して在来農法の優位性を実証・指導した。 また、「稲作小言(こごと)」(1890年)では欧米の有畜大農業を批判して日本稲作の重要性を強調。種籾の塩水選の有効性を説き、林遠里(明治3老農の1人)の非科学性を批判、健苗育成を重視している。さらに農家規模は「馬1頭に雇傭(よう)2人まで」と中農・精農主義を説き、地主制を批判して明治農政の進むべき方向を示している。 彼は、在来農法を実証や計量的手法(和算=数学の知識を活用)で科学的に見直すとともに、西欧農学(土壌・肥料学など)からも積極的に学ぶ合理的精神の持ち主であった。作物栽培と土壌肥料・気象条件を一体的に論じ、稲作や養蚕、園芸、農産加工等も含め研究対象が非常に幅広く、博学である。 近代農学を総合的な実学(実践の学問)と位置付け、明治の農業・農政を大局的に考察・指導している。農業技術の普及者としても、出版物が少ない時代に「チョボクレ節」と言う大衆的な伝承方法を用いるなど注目される。 農業が知識集約型産業として見直されている今日、船津伝次平から学ぶところは多い。 (上毛新聞 2011年6月12日掲載) |