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写真家  小松 健一(埼玉県朝霞市)



【略歴】岡山県生まれ。母の故郷・東吾妻町で育つ。第2回藤本四八写真文化賞、2005年日本写真協会賞年度賞。社団法人日本写真家協会会員。著書、写真展多数。



矢島保治郎その(5)



◎野性の血たぎる上州人




 上州が生んだ「明治の無銭探検家」矢島保治郎(1882~1963年)について、この欄に4回連載をしてきた。来年生誕130年を迎える矢島保治郎の実績を広く県民にアピールし、郷土の誇りとする顕彰事業が心ある県民のみなさんの総意によって実現されることを期待している。

 さて、チベットから帰国後、そして晩年の矢島はどうであったのだろう。「世界無銭旅行者」「冒険野郎の先駆者」ともてはやされた矢島の日本での現実は辛つらく、厳しいものであった。

 10年間郷里・上州に帰らなかった間に父母を失い、チベットから夢を抱いて共に日本の土を踏んだ妻ノブラーも4年後の大正12(1923)年に29歳の若さで前橋で病死する。ノブラーとの間にできた一子、意志信もニューギニアの激戦地で戦死する。母よりも早い27歳であった。

 ノブラーの死は全国紙の「東京日日新聞」や「時事新報」などに大きく取り上げられた。

 この頃(ころ)までの矢島はまだ記者の問いに対して、いささか大言壮語してはばからない元気さがあったが、さすがに意志信が戦死、翌年敗戦となると、心の張りを失ったのだろう。

 伸ばしていた長髪をバッサリと切り、髭(ひげ)も落とした。ダライ・ラマ法王から賜った耳環(みみわ)も外したという。その後は狭い土地に山羊(やぎ)や兎(うさぎ)や尾長鶏などを飼う好々爺(や)となった。最晩年は、娘・仲子さんの勧めもあって洗礼を受けヨゼフという教名を与えられた。昭和38(1963)年2月13日、眠るように波瀾(はらん)万丈の生涯を閉じた。享年80歳だった。

 昨夏、僕も仲子さんとともに墓参りしたが、生まれ育った殖蓮村(現伊勢崎市)に、家族とともに眠っている。こうして見てくると、矢島保治郎の人生とは一体なんだったのだろうかと思ってしまう。

 矢島の前橋中学の後輩で、医師・作家である浅田晃彦氏(1915~96年)は、その著書で「私が矢島保治郎の伝記を書いたのは、彼が常識に支配されず、自分自身の価値判断を持ち、自分の能力以上に賭けた人だからである。(中略)人間の可能性を広げ、人生に夢とロマンを与えてくれたことを高く評価する」と記している。僕も同感だ。この野性の血こそ上州人のすぐれた特性だと思う。

 旧高崎藩士の父を持ち、幼いころ上州に育った宗教家・内村鑑三が友人の住谷天来に宛てた「私は上州人である…」で始まる手紙の中に「上州人」と題した漢詩がある。

  上州無智亦無才

  剛毅木訥易被欺

  唯以正直接萬人

  至誠依神期勝利

 僕は内村鑑三が自らを上州人とした上で詠んだこの詩が矢島保治郎の人となりそのもののような気がするのだ。僕もこんな「上州人」になりたいと思っている。







(上毛新聞 2011年7月4日掲載)