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◎俳句の下座ではない 川柳というこの愛すべき文芸は、一般的にどんなイメージを抱かれているのでしょうか。 <川柳かふふんと鼻の先で言い><川柳は末座俳句は床柱> 『番傘』という全国的な川柳誌の同人として活躍した桜井長幸さん(かつて旧群馬町在住、故人)の川柳集『からっ風』所収の句です。滋味に富んだ川柳を数多く遺(のこ)した長幸さんが、川柳を「俳句の下座」と認識していたとは考えにくい。世間一般のイメージを嗅ぎとり、そう表現したというものでしょう。 ある高名な俳人が俳句の評で「川柳的で品がない」と言い、また、ある著名人が「私の俳句は川柳のできそこないみたいなもの」と発言したといわれています。聞いた人はそこに「川柳は俳句より下等なものとする認識」を読み取っています。川柳というのは品がない、という思いがなければ漏れてはこない発言でしょう。それがそもそも評言として成り立つのか疑問である上、著しく品格を欠いたものと言わざるを得ません。このことが川柳に対する一般的な認識を象徴しているように思えます。 このようなイメージがなぜ絡み付いているのか。 一つは、主に自然を詠む俳句に対し、主に人間や社会を詠み、風刺や穿(うが)ち、ユーモアといった特徴的な性格を持つ川柳への誤った評価があるのではないか。 川柳にも他の文芸同様、さまざまな傾向のものがあります。中に“品がない”と思われるようなものがあったとしても、それも他の文芸と同じです。それをもって川柳とは品のないものだとされては困るのです。 二つ目は、文学史における扱い方にあるのでは。 江戸時代中期に興った川柳の豊かな歴史は、前史や名称の由来も含め、発祥から明治期の改革を経て新しい川柳を志向する現代まで入門書や関係著作で克明にたどることができます。 しかし一般的な文学史では、例えばドナルド・キーンさんの『日本文学の歴史』には、江戸期の川柳の記述はあっても、近・現代については全く触れていません。俳句とはすごく対照的。学校の教材として使われる国語便覧の類でも同じです。一般の評価と学校教育の場における扱いの寂しさが思われます。実にもったいないではありませんか。 作家の田辺聖子さんは「川柳は巍然(ぎぜん)たる文学である」と断言しています。 作句上の制約がなく、17音字で端的に人間生活の実相に触れ、世相や日々の生活を活写し、機微を穿ち、森羅万象を表現でき、気取りをまとうことなく、芳醇(ほうじゅん)な味わいに満ちた文芸がほかにあるでしょうか。 長幸さんには、<川柳がさけぶ今にみろ今にみろ>という句もあります。 川柳に対するイメージの転回を期したいものです。 (上毛新聞 2011年7月12日掲載) |