視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
県立女子大非常勤講師  新井 小枝子(藤岡市中大塚)



【略歴】藤岡市生まれ。県立女子大卒、東北大大学院修了。博士(文学)。専門は方言学、日本語学。近著に『養蚕語彙の文化言語学的研究』(ひつじ書房)。



蚕の名づけにこめたもの



◎生き物への慈しみ




 今年もハルゴ(春蚕)が元気に育ち、立派なマイ(繭)を作った。本紙6月10日付の1面、カイテンマブシ(回転蔟)の写真が目をひいた。収穫のよろこびをわがことのように受けとめ、安堵(あんど)感にひたった方も多いだろう。やがて着物やスカーフに仕立てられ、恩恵にあずかる日がまち遠しい。

 その<繭>の作り主は、ご存じ<蚕>。変態する「昆虫」だ。「卵」から「幼虫」へ。「繭」を作って「蛹(さなぎ)」に。最後は「成虫」へと変態する。たしかに「昆虫」にちがいないが、群馬にあっては、この分類に違和感を覚える人が多いという。

 この地では<蚕>をオカイコ、オコサマ、オコサンと呼ぶ。古代日本語では、一音節で「こ」。これに由来するコを、「御」や「様」「さん」で包みこみ、造りあげた語が群馬での名づけである。通常、「御」は丁寧表現、「様」「さん」は敬称。オテントーサマ(お天道様)、オツキサマ(お月様)、カミナリサマ(雷様)のようにも使われる。<蚕>は、<太陽><月><雷>と同等に、畏敬の念をはらわれてきたのだ。

 群馬のみなさんは、折にふれて、そのような独特な名づけの由来を語る。養蚕が盛んな土地柄だったゆえに、養蚕が家計を支える重要な位置にあったがゆえに、そう呼ぶのだと。私もそのとおりだと思う。

 しかし、それだけなのだろうか、とも思う。経済的に重要だという理由のみで、自然への畏敬の念と同じ思いを、あの小さき生きものに向けるだろうか。

 現在、経済的な重要品目のひとつに<自動車>がある。海外への輸出額をみると、養蚕が盛んだったころの生糸に匹敵するという。今や私たちの生活に欠かせない<自動車>だが、この無機質な物体に、敬意をこめた名づけはない。経済的な支えとして重要でも、必ずしも敬意の対象とならない。<蚕>の名づけに敬いの気持ちをこめる要因は、お金もうけとは別のところにあるように思うのだ。

 じつは、群馬県のあちこちに養蚕ことばをたずねて歩いていると、いずこにも共通していることがある。それは、決して楽ではなかったはずの養蚕が、いきいきとした笑顔で語られること、<蚕>をかわいいと評価することである。不思議なまでに例外がない。家計を支える生業として重要な位置にあった養蚕は、間違いの許されない真剣勝負。労働の程度は並大抵のものではなかった。しかし、自らその道を選び、黙々と乗り越えてきた。敬意の名づけは、卑小な生きものへの慈しみに満ちた、ありのままの心の表明といえよう。

 あらためて、働くこと、生きることの覚悟を知る。そして、その先には、経済的な豊かさとはまた別の、ささやかで素朴な、人間にとってきわめて原始的な幸せがあるのだと思う。






(上毛新聞 2011年7月13日掲載)