視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


大信寺の五輪



◎非業の死遂げた忠長卿




 駿河大納言徳川忠長卿の御墓が高崎市通町の大信寺にある。1966(昭和41)年に市の史跡第1号に指定され、当市にとって近世以降では数少ない“全国区”の文化財である。県内に60基ほどしか残っていない高さが2・3メートルもある五輪塔で、群馬の近世では珍しい。

 この御墓の形式は、次の塔や墓が意識されたのではないかと思われる。一つは、卿が敬愛する母の崇源院(秀忠夫人・お江与の方。大河ドラマ主人公の「江」)のために高野山に建立した供養塔。台石が八畳敷きで高さは6・6メートルもあり、高野山の石碑の中で最も高く大きい“一番石”と呼ばれ、その壮観さは必見の価値がある。もう一つは、東京の小石川伝通院に建つ、卿の三十三回忌までの施主を務めた天樹院(実姉の千姫)の墓。いずれも五輪塔である。

 ところで、なぜ忠長卿の御墓が高崎にあるのだろうか。それは、卿が行状不始末「狂気」を理由に、1632(寛永9)年10月、高崎城主安藤重長にお預けとなり、翌年12月6日、城内で自刃されたため大信寺に埋葬された故である。

 重長に預けられた訳は、父の重信が徳川二代将軍秀忠の老職として信頼があつかった方で、「重信の後を継いだ重長ならば」と考えられたからではと思われる。実際、重長は何度も赦免を哀訴し兄・三代将軍家光の処分に抵抗している。

 大信寺に埋葬された訳は、卿の死が罪人扱いのためであり、幕府は苦慮の末に最期の地を選んだ。墓は建てられず、印として城内から愛玩の松の大木が移植された。卿の死後43年にして赦(ゆる)され造立されたが、その後も鎖が掛けられていたほどである。ちなみに大信寺は徳川家墓所の一つ芝増上寺の末寺である。

 この御墓を“全国区”の史跡と言う訳は、駿河国他3カ国に55万石を領する権大納言の忠長卿は、家光及びその周辺の実力者には地位を脅かされる危険な存在となり、難癖をつけて非業の死に追いやられた歴史のゆえんである。そのため巷説(こうせつ)が数多く残っている。

 例えば、両親が聡明(そうめい)な弟をかわいがり、発育遅れ気味な兄が抱き続けた憎しみ。兄の乳母春日局つぼねと弟を将軍にと思う母との確執。局が大御所家康に長子襲封(しゅうほう)をと泣きつき裁断された後継問題。流布されたさまざまな卿の乱行等々である。関係者が亡くなった後に書かれた勝利者側の記録によるもので、家光・春日・家康をたたえることが主眼で真偽の程は分からない。

 このように日陰の立場にされた忠長卿の歴史はまだ解明不十分で、真実に近づきたいと感じさせる史跡。廟所入り口にあった立派な唐門が、先の大戦で焼けなかったら一層価値のある文化財であったろう。御墓を囲む石の玉垣の修復事業に関わり、伝えていく責任を一層強くした高崎の宝である。






(上毛新聞 2011年7月18日掲載)