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建築家・著述家  武澤 秀一(東京都国分寺市)



【略歴】前橋市出身。東大卒。工学博士。1級建築士。設計活動とともに東大、法政大で講師を兼任。現在は放送大学講師。著書に「伊勢神宮の謎を解く」(ちくま新書)など。


原発か脱原発か



◎求められるのは「覚悟」




 福島第1原発から出た放射性物質は関東を超えて拡散している。日々、「安全」が見えない。静岡の浜岡原発は全面停止となった。国は定期検査で停止中の原発について「安全宣言」を出していたが、その後、安全確認のため全ての原発に対しストレステストを追加することになった。再開には慎重さが求められる。

 脱原発の声が大きくなっている。生存権・生活権を根こそぎ奪いかねない原子力の脅威を今、リアルタイムで体験しているのだから、心情として当然だ。しかし、原発に替わるエネルギーを確保できるのか。長期的には太陽光、風力、地熱など自然エネルギーを活用する発電に転換してゆく必要がある。(6月29日付本欄で、本県はその条件に恵まれていることを鵜飼惠三氏が指摘されている)

 ところが自然エネルギー発電を安定軌道に乗せるには、かなりの時間を要する。その間、停止中の火力・水力発電所をフル稼働させ、天然ガス火力の比率を高めるなどしても、従来のような電力の大量消費は改めなければならない。経済は悲鳴を上げよう。電気料金も上がるだろう。当然、仕事やライフスタイル・価値観までもが変革を迫られる。ならば、従来通り原発を維持し推進してゆくのか?

 技術に失敗はつきもの。これを乗り越えてこそ技術の進歩がある。その蓄積の上に今日の社会があるのであり、今回の大事故を乗り越えてさらに原子力技術を向上させてゆかねばならない。一見、正論ではある。

 だが考えてみよう。われわれは広島・長崎で原子力の恐怖を実感した最初の国民だった。原爆であろうと原発であろうと、原子力による災禍は過酷だ。その影響範囲、影響時間は計り知れない。うまく手なずけておいしいところだけを取る、つまり「核の平和利用」は人間の能力を超えた危険な行為であることを今、私たちは身をもって体験している。それでも経済を優先して原発の維持・推進を主張するのなら、原発隣接地に子供や孫と共に居住する「覚悟」をもたねばならないだろう。(縮減するが最終的に原発を残す場合も同様)

 もっとも、脱原発においても、中身は違うが覚悟が求められる点は同じだ。「今あるものを丁寧に使い込む、腹は八分目とし、省エネルギーを心がける、過度に貯蓄せず、消費は適度に―。生活に創意工夫を凝らし、想像力を働かせて充実の時間のなかに豊かな清貧を見いだしてゆく」

 これは原発事故の起きる前、昨年12月3日付の本欄に書いた一節である(一部省略)。一人ひとりがこうした「覚悟」をもち、地に足を着けた価値観に立つなら、時間はかかっても、危機は乗り越えることができる。決して過去の高度成長・大量消費社会を夢想してはならないのである。






(上毛新聞 2011年7月21日掲載)