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中之嶽山岳会長  飯嶋 常男(下仁田町上小坂)



【略歴】甘楽農業高(現富岡実業高)卒。25歳で山岳会に入り、妙義山の登山道整備や山岳遭難者の救助に携わってきた。近年は同山や郷土史の調査にも取り組む。


妙義山



◎旅人が発信した新情報




 妙義山麓の下仁田町上小坂地区には縄文時代からの高地性集落遺跡が散在している。妙義山は地域の古代人の祈りの山であり、磐座(いわくら)信仰の対象としてあがめられた山で、安中市の「天神原立石遺跡」は祭祀(さいし)場跡といわれている。弥生時代のころ、水田農業が発生すると人々は平地へ移動し水を利用して稲栽培を行った。

 数年前、上小坂村名主宅で発見された1720(享保5)年の武尊大権現縁起古文書によると、欽明天皇のころ、百済国の沙門妙形和尚が中之嶽へ登ったところ、日本武尊が現れ「この宝の山に遊び住まえるように」と望んだことから、社を建立し中岳武尊大権現(中之嶽神社)として祭った。

 鎌倉時代のころから神仏習合の霊場として栄え、真言宗当山派修験寺として巌高寺が創建され(年代不明)、修験行者や武道修行者が仮庵で修行に励んだ。その徳を慕い参詣の人々が訪れ、広く妙義山が知れ渡った。

 江戸時代に入り、戦のない平和な世の中が訪れ、各地には関所が開設された。通行手形さえ持ち合わせていれば街道の往来は安全が確保され、神社仏閣の参拝記や旅の道中記などの往来物が出版発行される中、妙義山には多数の画人が訪れた。

 中でも1804(文化元)年に発行された谷文晁画「名山図譜」は、全国の名山宗教的霊峰88座の山容図からなり、第1巻の3番画に中山道郷原から写生した妙儀山在上毛州甘楽郡(妙義山)、第2巻最初に中嶽石門の彩色画が描かれている。現在の中之嶽駐車場から金洞山石門周辺を写生した絵図で、第3巻内に妙義山全図と石門の2絵図が描かれている。妙義山絵図はシーボルト著「日本」の中に石版印刷で記載された。

 江戸中期から盛んに出版された往来物・紀行文が広く大衆に浸透、名所旧跡のいわれや神社仏閣の縁起・巡礼により人々は旅心をかき立てられた。

 小田宅子著「東路日記」は、筑前国・底井野村(現福岡県中間市)の小松屋おかみ、小田宅子ら6人が1841(天保12)年、伊勢参りから信濃善光寺へ向かい、中山道追分宿で宿泊。中之嶽神社・妙義神社・榛名神社から足尾を通り日光へ参詣した紀行文で、文章は短いが、当時の様子が端的に記されている。妙義山に第五石門があると分かったのは東路日記の記述からである。

 また、参道沿いで生活する人々が茶店で、農産物や栗おこわなどの地域特産物を販売していた様子も知れる。これは近年いわれる地産地消であろう。江戸から明治にかけて人々の生活圏は徒歩1日で移動できる範囲だったが、旅人ははるかに行動範囲が広く、新しい旅情報の発信元となっていた。






(上毛新聞 2011年7月29日掲載)