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群馬詩人クラブ代表幹事  樋口 武二(富岡市田篠)



【略歴】ミニコミの編集・発行に携わる。群馬詩人クラブの代表幹事、コミュニティマガジン「い」編集発行。2005年に自然保護活動で「群馬銀行環境財団賞」を受賞。


「新しさ」とは何か



◎地方性にもう一度目を




 新しい文化、新しい思想などといったことが、よくいわれるが、「新しさ」とは、いったい何だろうか。

 たとえば、昨今あまり聞かなくなったものに「地方文化」という言葉がある。地方独自の伝統的な文化性をいうらしいのだが、狭義の地域性、歴史性といったようなものまで含んだ言葉として、使われているようだ。それと対極的な言い方で「都会性」というのがあり、以前はよく聞かれたものである。同様な言葉で少し切り口が違ってくるが、「地方文学(文芸)」などというものもあった。主に、都会の影響をあまり受けない地方の同人誌などをそう呼んだようなのだが、情報のネットワーク化が進んだことによって、今では、ほとんど耳にすることもなくなってしまった。それに「地方」という枠組み自体が、政治の場くらいでしか語られない時代となっている。つまりは「地方」という言葉の中に共有するような意識や体験がほとんど無くなったといってもよいのではないか。それを支えた共通認識の場である「祭り」や「同窓会など」が、唯一の郷愁が機能する場所であるかもしれない。それが「地方性」の源であり、そこには、新しさというよりも、むしろ古さが似合ったりするのである。だから、ひとは郷愁というものを持ちたがるものだ。

 そんな思いもあって、ふと、私たちにとって新しさとは何だろうかという、そんな思いにかられたのである。思えば、戦後生まれの私にとって衝撃的な新しさとは「コーラの味」であった。あれこそがまさに今までになかった新しい味であり、「コーラナイズ」という言葉のように、まさに新しい異文化の襲来だった。確かに飲み物としては異質なものであったかもしれない。だが、あの時に飲み干したのは、新しい飲み物としてのコーラではなく、むしろ、異文化と言ってよいようなアメリカの、いや西洋の文化、新しさといったものであった。あれに匹敵する驚きは、やはりインターネットの進歩であろう。それによって、私たちは新しい世界の在りようといったものを学んだからである。しかし、それとともに、また、大切なものも失ってしまったのかもしれないのだ。

 単なる郷愁譚に終わりそうな気配もするが、ここで言いたかったのは、文学、特に地方でものを書いている私たちにとって「新しさ」とはいったい何なのだという素朴な疑問だ。群馬詩人クラブで「群馬戦後詩の検証」を行って、この「新しい」ということが見えなくなった。商業誌と違って、私たちの個人的な営為には理由が要らない。だからこそ、新しさというものに目を奪われがちだ。衝撃的であればあるほどそれは強い力をもつ。だが、いま一度「地方性」や「地方文化」といったものに目を向けたい気もする。単なるノスタルジアかもしれないのだが。








(上毛新聞 2011年8月18日掲載)