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写真家  小松 健一(埼玉県朝霞市)



【略歴】岡山県生まれ。母の故郷・東吾妻町で育つ。第2回藤本四八写真文化賞、2005年日本写真協会賞年度賞。社団法人日本写真家協会会員。著書、写真展多数。


伊藤信吉さんとの約束



◎サハリンで国境碑確認




 今年の5月、14年ぶりにサハリン(旧樺太)を作家の重松清氏と訪ねた。宮沢賢治が88年前の樺太を独り巡った足跡を辿(たど)る旅である。

 サハリンは1881年、ロシアの流刑地として町がつくられ、1905年のポーツマス条約で北緯50度以南が日本領となり、第2次大戦後再びソ連に併合されるという時代に翻弄(ほんろう)された歴史を持った島である。

 今回の取材目的は『宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り』(新潮社)の刊行であったが、実は僕にはいまひとつどうしても探したい物があった。1905年に樺太北緯50度の地に設置された日露国境標を自らの目で確認することだった。

 それは上州出身の詩人・伊藤信吉さん(1906~2002年)との「約束」を僕なりに果たすことでもあった。伊藤さんとは同郷の大先輩ということもあり、三十数年前からお付き合いさせてもらっていた。

 ある雑誌の特集で伊藤さんが萩原朔太郎、高村光太郎、草野心平、高橋元吉らとの思い出を語りながら上州のゆかりの地を巡るという企画があった。

 その折、利根川の岸辺にある松林の中に立つ朔太郎の「帰郷」の詩碑の前で、「この碑の形は、函館の立待岬にある石川啄木の墓碑に似ている…」と僕が言った。

 詩人はその言葉に触発されたのか、1994年、伊藤さんが88歳のときに刊行した詩集『私のイヤリング』の中に「サハリン遠望」と題した一編の詩を収録している。その文中に、

 碑面にカメラの焦点を絞 りながら

 同行のK・K君が言う。

 「この碑の造形はるかに、

 樺太(サハリン)国境の名残りが見える。」

との一節がある。その後、伊藤さんと会うたびに「サハリンへ行ってあの国境碑を見たいね」と僕に言うのだ。一緒の旅を実現したいと本当に思っていた。しかし、1997年に稚内から航路で僕だけが行き、そして今回2度目の訪問となった。

 高さ50~60センチの小さな将棋の駒に似た碑石は現在、サハリン州立郷土博物館の一角にあった。境界標北面にはツアー領の露西亜文字、南面には天皇の菊花紋章の浮き彫り、その上部に「大日本帝国」の5文字が彫ってあった。

 啄木の親友、宮崎郁雨の発案で日露国境標を模し、「東海の小島の磯の白砂に…」の歌が刻まれている一族の墓。その墓碑の造形を受けて上州前橋の朔太郎の「帰郷」碑に原型の名残があると僕は思ったのだ。

 三つの碑の写真も並べて見たが、確かによく似ていた。その真意を確かめるべく伊藤さんとサハリンを旅することはかなわなかったが、詩人が亡くなって10年目にようやく「約束」が果たせたことに安堵(あんど)している。






(上毛新聞 2011年8月30日掲載)