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座繰り糸作家  東 宣江(安中市鷺宮)



【略歴】和歌山県出身。嵯峨美術短期大学テキスタイル(京都)卒。2002年来県。碓氷製糸農業協同組合(安中)で座繰りを学ぶ。07年から養蚕も行っている。


明治の製糸に触れる



◎技術と精神に感服




 先月、旧碓氷社本社事務所(安中市)の建物内を見学する機会に恵まれた。碓氷社は明治時代に設立された製糸合同販売団体だ。今回はこれにちなんで明治の製糸に少し触れてみたい。

 明治初頭、生糸輸出の急増によって粗悪な生糸が氾濫していた。器械製糸が主流になる以前の生糸とはどのようなものだったのだろう。1870(明治3)年、前橋藩営による日本初の洋式器械製糸所が設立した。その中心人物だった深沢雄象の長女、孝が口述した資料「器械糸繰り事始め」に当時の様子がうかがえる。それによれば、初期の輸出用生糸は農家が各自勝手の太さに繰ったものを仲買人が買い集め、糸問屋は大した検査もせずに横浜へ出荷するというありさまだったという。太さや品質に対する基準がないのでは工業製品としては失格だ。

 こうした問題を受けて、明治政府は明治5年、富岡製糸場を設立する。蒸気機関を動力にした器械繰糸機を大規模に導入した日本初の官営製糸工場だ。その富岡製糸場で働いていたのは主に士族や豪農の娘たちであった。 碓氷社は明治11年、農家を組合員として、安中市磯部に産声を上げた。興味深いのは当時最先端だった初期の器械製糸よりも、昔ながらの手回しの座繰り器でつくられた碓氷社の生糸のほうが高品質だといわれていたことだ。おそらく製糸の工業化には教科書の一ページで語られない苦労と時間が必要だったのだろう。碓氷社はこの地方の農家が昔から座繰り製糸を副業としていたことを活かして、原料繭と座繰り糸の品質の安定化に心血を注いだ。蚕と生活を共にしていた農家だからできた取り組みだったといえるだろう。その碓氷社も明治18年には器械繰糸機の導入を始め、大正6年には座繰り製糸から器械製糸へと完全に移行した。

 私が興味を持っているのは、座繰り時代の碓氷社の生糸だ。その生糸を再現しようと思い、まず当時の品種の蚕を飼育した。その繭は日本の在来種で、大きさは現在の一般品種の半分ほどだ。皇居で飼育される小石丸はその代表的品種だ。当時の輸出用生糸の太さは繭4粒、5粒だ。できた繭をその太さに定め、碓氷社の製糸方法をまねて手回しの座繰り器で生糸にした。この製糸方法は、最近群馬県内を中心に行われている座繰りとは勝手が違う。ひき手の精神が糸質にそのまま表れるほど繊細で、集中しないとすぐにトラブルが出た。できた生糸を当時の横浜生糸検査所の検査に照らし合わせてみたが、ずいぶん等級の低い結果となってしまった。この検査にかなう生糸を手で量産していたとは信じられない。手回しも決して一朝一夕にできる技術ではないことがわかった。明治の人の技術と精神に、ただただ感服する。







(上毛新聞 2011年9月3日掲載)