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川柳さろんGunma世話人  河合 笑久慕(太田市薮塚町)



【略歴】上州時事川柳クラブ事務局長。本名は遠坂孝雄。県川柳人協会委員。川柳研究社幹事。みやま吟社会員。古川柳研究会会員。昨年3月より「川柳さろんGunma」開設。



川柳と俳句の境界



◎不可欠な「穿ち」の視点



 こんな感想を持ったことはありませんか。新聞や雑誌の川柳欄を見て<この句は俳句みたい>、あるいは俳句欄を見て<川柳みたい>と。時々耳にします。なぜでしょう。

 そもそも川柳と俳句はどう違うのか、川柳を始めたころから気になっている大きな疑問の一つです。

 川柳の入門書では、必ずといっていいほど俳句との違いについて触れています。俳句は自然に、川柳は人事に重点をおいて詠むとか、川柳には季語や切れ字の制約がないとか、特徴的な性格をあげて比較しています。しかし、近年の傾向からみるとその境界はあいまいになってきているとして、このような状況を「無境界化現象」などと説明しています。それだけでなく「柳俳一如」(川柳=俳句)の到来を待っているかのような入門書もあります。

 ある川柳作家が俳句との区別について問われ、〈作者の名前でしか区別する方法はもうないのではないか〉と発言したことがあります。川柳作家が作れば川柳、俳句作家が作れば俳句というわけです。ではなぜ川柳作家と言い、俳句作家と称するのか、戸惑うばかり。川柳が川柳であるために、果たしてこれで良いのでしょうか。

 こんな疑問を抱えて悶々(もんもん)としていた約10年前、復本一郎著『俳句と川柳』『知的に楽しむ川柳』と出合い、目から鱗(うろこ)の思いでした。内容をここで詳述することは困難ですが、著者の考え方が画期的と思われる点は、句の構造に着目し、いわゆる「切れ」の有無で判断しようとするものです。

 「切れ」といっても単なる文節の区切れではありません。著者は一句を「首部」と「飛躍切部」という2部分に分け、両者のイメージに距離があれば「切れ」があると考えるのです。そしてこの「切れ」のある句を俳句とし、「切れ」のない句を川柳とみているのです。

 とすれば、川柳はイメージの飛躍をもたらす「切れ」に頼ることなく、句としての感興を呼び起こす必要があります。そのために欠かせないのが「穿(うがち)」の視点です。穿ちとは、端的に物事の本質をつかもうとする目の働きです。著者は「川柳は穿ちで成り立つ」としています。ユーモア、批評性など川柳の特性もそこに由来するのではないでしょうか。

 この「切れ」の有無による判断に対し、今もいろいろな議論があるようですが、川柳と俳句の相違点をこれほど明瞭に指摘した見解を他に知りません。

 ともあれ、両者の区分を踏まえ「俳句のような川柳、川柳のような俳句」から、「川柳らしい川柳、俳句らしい俳句」の探究がそれぞれなされるべきではないかと思われます。

 こんな観点から、試しに川柳や俳句の欄を見直してみてはいかがでしょうか。






(上毛新聞 2011年9月6日掲載)