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県立女子大非常勤講師  新井 小枝子(藤岡市中大塚)



【略歴】藤岡市生まれ。県立女子大卒、東北大大学院修了。博士(文学)。専門は方言学、日本語学。近著に『養蚕語彙の文化言語学的研究』(ひつじ書房)。



『方丈記』を読み直す



◎冷静に受け止める力



 夏休みに『方丈記』を読み直した。3・11以降、この古典文学のことがずっと気になっていた。「無常」という少し哲学的なことばを学んだのは、学生時代、国語の時間、この随筆だった。

 教科書の記憶は、じつにたよりなくおぼろげなのだが、3・11のできごとを理解しようとするたびに、宿題で暗記させられた、あの有名な冒頭部分がたちあらわれてきた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。あの日あの時以来の信じがたきできごとを、冷静に受けとめる力となり、どこかでおごっていた心を静かにたしなめてくれた。学舎(まなびや)でのある日、暗記せよとの指示に、自覚もなくただ従っただけの浅はかさに恥じ入ったが、恩師への感謝の念の方がまさった。理解しがたい経験を語ろうとするとき、あるいは混沌(こんとん)とした心を整理しようとするとき、私たちはことばを必要とする。10代半ばの学びが、そのよすがとなっていることのありがたさに、しみじみとなった。 『方丈記』には、「無常」をかたる冒頭につづき、作者、鴨長明(かものちょうめい)が経験した災害がつぎつぎに描かれる。ときは西暦1200年を目前にひかえたころ。彼は大きな災害にみまわれる。火事、つむじ風、飢饉(ききん)、大地震。それぞれの惨状を子細に記し、状況をありありと伝える。自然に畏れをいだき、かつ、受けとめながらのくらしぶり。こうして人は、常なるもののなきことをさとってきた。かつて教室では、このような感じ方はできなかった。確実に3・11以降の読みが加わっているのだが、年を重ねてから、教科書で習った古典文学を読み通してみるのはいいものだと思った。読書の幸せは、こういうところにもあるのだとつくづく思う。

 さらに読み進めると、「六十(むそじ)」を目前にひかえた長明が、「末葉(すえは)の宿りをむすべる」、すなわち「晩年の住み家をつくる」。家の広さは、「わづかに方丈(約3メートル四方)」。それを、なんと「老いたる蚕の繭を営むがごとし」と説明しているではないか。人生の終盤を「老いたる蚕」に、小さな家を「繭」に見立てるこの手法。群馬県の方言と同じだ。養蚕の盛んだったこの地では、しばしば、年をとった自分のことを「ハー ズーニ ナッタ(もう年をとって熟蚕のようになった)」と表現する。<蚕>に自分の人生を投影して。長明のとった表現と群馬県方言の共通性。ことばの営みの普遍性に、これまたしみじみとなった。

 とにもかくにも、今年の夏は暑かった。もうじき読書の秋がやってくる。人は読むと何かを思う。お気に入りの一冊を探して、思いをめぐらす秋、思いを深める秋を目標とさだめたい。







(上毛新聞 2011年9月7日掲載)