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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。


高崎の成り立ち



◎江戸のまちづくりが礎



 昨年、母校の小学校と中学校で高崎の歴史を話す機会をいただいた。「高崎市」でなく「高崎」とこだわったのは、1598年に井伊直政公がこの地を高崎と命名、また、このころから一般人の歴史が分かるからである。そして、小和田哲男先生の言われる「もし…の視点で歴史を眺めてみると、我々の立つ地平を知ることが出来る」ように話してみた。

 「もし」の主なことは、直政公が家康きっての部下でなく高崎に居城を移さなかったら。その後の城主が五万石の同格でなかったら。酒井氏が中山道の道筋を変えなかったら。安藤氏が伝馬宿に六斎市(月に6日開催される市)を認めなかったら。そして、大河内氏が幕閣の中心に居なかったら等々である。

 直政公は、家康関東入封の時に最大の石高を与えられ、武将としてだけでなく外交官としても家康の右腕の人物。徳川政権確立後を見越し、関東北辺の軍事上の要衝として居城を箕輪から高崎へ移し城下を描いた。「関東と信越結ぶ高崎市」につながる決断であった。城下は、「遠構え」(現在残る三の丸堀と土塁より少し小ぶりで、城下を囲った防衛施設)の中に、武家地も町人地も含まれる「総郭型」であった。公が転封になった後は石高が半分以下の城主が続いたが、同格であったことから城下及び城付領(城周辺の領地)が安定した。このことが高崎発展の礎といえる。

 井伊氏の城下町として始まった高崎は、その数年後に中山道が制定され宿場町にもなった。城下で宿場という二つの顔の町は、東海道五十三次は九次、中山道六十九次は四次だけの特異な存在で、かつ関東有数の大きな町であった。このため、江戸へ向かわずに高崎で一旗揚げた人が多く、他県出身者を受け入れやすい町になったのであろう。

 近世の城下は武家屋敷が並び、敵の侵入を阻止するため鍵形に曲げられた道などが思い浮かぶ。一方、宿場町の形象は、旅籠(はたご)・茶屋・旅人・大名行列などである。ところが、高崎は珍しい碁盤目型矩形(くけい)の城下であり、中山道一の家数を有するが、旅籠が少なく本陣・脇本陣がない(中山道と東海道では2宿のみ)。また、中山道を付け替え城下の真ん中を通し、その1・5キロの間に本町・田町・新町の3伝馬を設置し六斎市を認めたため、高崎全体として2日に一度以上も市が立つ商業都市へと変貌していった。

 このような町の構造形成過程を通して、軍事的要衝地から交流拠点都市への変遷の歴史を知ることができ、一般的な城下や宿場にとどまらず、とられた施策により商都として発展した基本構造が見えてくる。

 次代を担う子供たちの心の中に、高崎の基礎が江戸時代のまちづくりにあったことが刻まれれば、引き受けた価値があるのだが。







(上毛新聞 2011年9月13日掲載)