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放送大学非常勤講師  田中 修(高崎市浜尻町)



【略歴】渋川市北橘町出身。九州大大学院修了後、1976年に県庁に入庁。県農業試験場、農業担当理事兼農業局長を経て、今年4月まで県スローフード協会理事長。


世界遺産への道



◎“物語”に群馬の個性を



 富岡製糸場の世界遺産登録への道は、群馬の個性的な蚕糸業発展過程(群馬の蚕糸絹業遺産群)を取り込んだストーリーをどのように描くかが重要なことではないだろうか。

 富岡製糸場の世界遺産としての建物施設の価値は、建設の意義やスケールの大きさ、独創性、保存状態からして申し分ないだろう。しかし問題は、群馬という地域個性、また、群馬でその技術が生かされるのは明治末~大正の組合製糸の改革期や昭和初期の群馬社の設立時という時間差があることだ。

 富岡製糸場と群馬の蚕糸業発展との関係は、明治期を見れば、器械製糸の模範工場である富岡製糸場の成果は長野県など、むしろ他県に見られる。対する群馬は座繰りを主体とする西毛の組合製糸碓氷社・甘楽社・下仁田社や前橋の精糸原社・交水社の活躍が構図として考えられる。

 しかし、明治末~大正期には器械製糸の優位性が確立し、西毛の組合製糸の技術革新や1927(昭和2)年の大型組合製糸群馬社の設立時に器械製糸の技術が生かされている。

 群馬では、蚕糸業の技術発展に貢献した国の施設は、1872(明治5)年に官営富岡製糸場が、77(同10)年に新町紡績所が建設され、1913(大正2)年に国立原蚕種製造所前橋分場(筑波移転)が設置されたが、遺産的価値としては富岡製糸場が極めて高い。

 また、富岡製糸場は良質繭の確保のため、高山社や島村などの蚕種業者らと連携して、一代交雑種の普及に大変貢献している。

 蚕は繊細・病弱な昆虫であり飼育は難しく、一代交雑種の普及以前は違蚕が多かった。1905(明治38)年、メンデルの遺伝法則を応用した一代交雑種の実用化が可能となり、大正初期に国(原々種製造)・県(原種製造)、蚕種業者(交雑種の製造)等の普及体制が整備され、短期間に農家に普及したといわれている。

 一代交雑種の利用により蚕が著しく強健化され、飼育法の簡易化をもたらすとともに、良質な繭の量産化、夏秋蚕等の多回育化も進んだ。さらに、器械製糸の技術革新によって生糸の生産量が飛躍的に増大し、大正末~昭和初期には、日本はイタリア、中国を追い越して世界一の生糸輸出国に成長した(石井寛治、清川雪彦氏ら指摘)。

 殖産興業の象徴である富岡製糸場と群馬の蚕糸絹業遺産群を世界遺産とする意義は、建物施設の遺産的価値のほか、蚕糸業が大正期に飛躍するための技術革新や一代交雑種の普及体制の整備など、日本の産業革命の中心に位置したものと考えられるからではないだろうか。







(上毛新聞 2011年10月6日掲載)