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片品村文化協会長  千明 政夫(片品村摺渕)



【略歴】片品村生まれ。旧制沼田中学卒業。農業の傍ら、約30年間PTAとして村の教育に携わり、小中高校のPTA新聞の発刊に尽力。2007年から村文化協会長。


先祖の足跡



◎伝えられた命を未来へ



 私の先祖の家は、かつて旧暦の桃の節句にあった集落の火災で類焼しました。その後建てられた母屋と土蔵の窓のところには、「天明5年建築」と、施工した大工の名とともに墨で書かれています。

 1957年の伊勢湾台風で母屋の一部がこわれて修理した時、この家は垂木まで全て組み込み、金具は石屋根の野地板を止めた四角の打ち針だけだということがわかりました。

 この家で生まれた人、亡くなった人、たくさんの人のことを考えると、この家を大切にしたいと心に決めました。

 わが家の墓地に、墓碑銘が「経王供養塔」、上部に日輪、台座に菊の紋章が刻まれた石塔があります。横面には、建てた人の名が刻まれているのですが、前回の本欄(8月11日付)で紹介した古文書の作者と同じ、千明八右衛門となっています。

 伝説では、日本武尊(やまとたけるのみこと)に同行してこの地で亡くなった人とされています。「経王」とは、善政を施した人という意味もあるそうですが、なにしろ300年も前の伝説なので、まったく謎でした。しかし、古文書の発見によって、いくつかの伝説がつながってきました。先祖を大切にしようという私たちの思いに、昔の人が応えてくれている、そんな気もしています。

 しかし、この家はずっと続いてきたということでなく、何回も家系が途切れては、また新しい家系が始まっているようです。

 はるか昔、真田の家系で昌幸や、幸村が活躍したこととは別に、沼田城主、真田信利の代に、年貢、つまり現代の税金がとても重く、利根・沼田の領民が、たいへん苦しみました。そこで、天和元(1681)年、月夜野の杉木茂左衛門の直訴や、幕府の調査で真田は改易。寛保2(1742)年に新しく岐阜の土岐頼稔が沼田城主となりました。その時に従ってきた家来の一人が、この家の養子となったという言い伝えがあります。

 その縁なのか分かりませんが、明治4(1871)年の廃藩置県で12代沼田城主、土岐頼知が職を解かれて、東京に帰る時、側室の子の4歳の娘を、子のいないこの家に預けたとされます。その人が私の曽祖母になる人でした。長男だった祖父とは一緒に住まず、私も時折会うくらいでしたが、私には優しい人でした。

 一人の生命は何千年ものつながりの中で大切に伝えられてきたものです。それは決して自分だけのものでなく、未来に伝えていかなければなりません。その思いを子どもたちにも伝えたい。先祖の足跡をたどりながら、そう思います。







(上毛新聞 2011年10月7日掲載)