視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
群馬詩人クラブ代表幹事  樋口 武二(富岡市田篠)



【略歴】ミニコミの編集・発行に携わる。群馬詩人クラブ代表幹事。2005年に自然保護活動で「群馬銀行環境財団賞」を受賞。


詩作品の在りよう



◎「生きるもの」の切実さ



 9月の下旬に、高崎で「群馬詩人クラブ詩画展」を開催した。テーマは「再生」、ご覧になった方もおられると思います。出品された作品の中には、東日本大震災を具体的にイメージされたものもあり、いろいろと考えさせられました。同時に行われた「朗読会」で先輩詩人が「もう、私は震災の作品を書くことはないだろう。自分の内部からの言葉でないと、なかなか作品が書けないものですから」と発言されたのには驚かされました。作品の在りようといった、まさに文学の本質に迫る発言でした。若い詩の書き手がその言葉にどんな印象を抱いたのかは聞きそびれてしまいましたが、そういった大切な部分が、近頃はあまり議論されることがないように思われます。しかしながら、「文学」の、いや、物書きの基準がここらにあるような気がします。

 私たちの日常は手軽でインスタントな生活になじんでいます。それは、けっして言葉だけのもつ特性ではなく、深く物事に関わり、自分の内部の根っこのところからの思考というものが行われなくなっているということなのだと考えます。言葉が軽くなったというのではなく、私たちの時代性そのものがインスタントになったということなのでしょう。この大震災で、日常の時間の中にいや応なく「死生観」というものが入ってきました。自らの時間の有限性に気付くとき、人はあらゆる関係に優しくなれるのではないでしょうか。

 「群馬戦後詩の検証」で私たちが得たものは、あの時期の、あの混乱の中で、詩を書こう! と多くの人が考えていたという事実、これは素晴らしいことです。それは、詩が書かれるものではなく、「生きるもの」つまりは詩を生きた人たちが大勢存在したということでもあります。そして、それがそのまま文学の在りよう、言葉の在りようでもあったということです。

 日常からの軽い作品では、現実の前では無残である。つまりは、しっかりと自らの「生」を生ききるという決意のようなもの、「一期一会」とまでは言わないが、「切実さ」だけは、忘れてはならないものなのです。現実との相克なしに作品が成立するとはとても思えない、あらゆる葛藤も、この切実さを持たないと生まれて来ないものなのだ。必要なのは、傍観者的視点ではなく、「私はどうあるのか」といった主体的な関わり方なのです。戦後には、「生きる」という行為と、「書く」という行為が、日常の中に同列として存在したということを、真しんし摯に受け止めたい。そこにこそ、私たちの「原点」があるといったら、笑われるのだろうか。

 いま一度、自らが有限的な生き物であったという事実に眼めをおき、しっかりとした視点を持ちたいと思う。最後は人生論のようなものになったが、人も文学も、その在りようは似ていると思われてなりません。






(上毛新聞 2011年10月14日掲載)