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古書店経営  樋田 行夫(前橋市岩神町)



【略歴】前橋高、法政大学法学部卒。東京・高円寺都丸書店にて古本屋修業。帰橋後、実家の大成堂書店で群馬の古本屋を学ぶ。1977年、大閑堂書店開業。


出版の背景



◎さまざまな物語潜む



 現在、各種さまざまな辞典、事典が発行されている。不明な事を調べるのが第一の価値である。英語を習い始めた時に「字を引く書なり」と覚えるとよいと教えられた。しかしながら、いきなり本文に入らずに序文などを眺めてみると、次のようなことが明らかになってくる。

 イギリスの辞典オクスフォード大学出版局発行のN・E・Dオクスフォード英語辞典は、1857年に企画され、最初の巻の刊行が1884年、そして実に71年の歳月をかけて1928年に完成した。

 日本では白水社から「村岡玄編 西和辞典」というスペイン語辞典が出版されていた。実はこれは復刻版。編者の村岡玄氏は、明治の末に東京外国語学校スペイン語学科を卒業してすぐ文部省の委嘱で、スペイン語辞典の編集に取り組んだ。予算難から中止となって以後も外語大の講師を務めながら研究に打ち込み、ついに1927年に約5万語を収めた日本で初めての完全なスペイン語辞典を完成させた。しかし出版を引き受けるところがなく、私財を売り払い自費出版したものであった。

 また、諸橋轍次の大漢和辞典は43年に第1巻を発行したが、45年の戦災で一切の資料を焼失、その後、諸橋氏自身も右目を失明、左目もほとんど文字を判読できない状態の中で55年に全13巻が完成した。

 そして、元県立文書館館長、田中康雄氏の「江戸商家・商人名データ総覧」全7巻。永年にわたる研究生活の集大成である。世界第一の百万都市江戸の商業活動を担う商人の名前総覧で、江戸社会史や文化史などさまざまな分野での新たな江戸学研究の発展のために必要不可欠な貴重な資料。

 辞典に限らず本は執筆・編纂(へんさん)に携わる人々の計り知れない苦労と膨大なエネルギーの集積により成り立っている。

 本を扱うことを生業(なりわい)としている者としては、それぞれの本の背景に潜んでいる、このような人間の思想と感情を盛り込んだ物語を受け取っていきたいと思う。

 毎年春になると新しい辞典を新入学の学生が求めるのが恒例であったが、電子辞書の普及によって書籍の辞典がそれほど必要とされなくなってきた。電子辞書は検索機能の効率性・利便性を追求する機械なので、執筆者の思いを感じとる機会は考慮されていない。

 社会が大きく変貌するなかで、本の世界も当然その影響を受けるが、今まで培ってきた伝統を断ち切るのではなく、従来の秩序と詩情を学ぶことで変化を進めることが肝要と思う。

 豊さを求めるために、世間は利益と効率を求めざるを得ないが「本がよく読まれる世の中はゆとりがある証拠」というほどの、豊かさと落ち着きはあってほしいもの。







(上毛新聞 2011年10月29日掲載)