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高崎史志の会理事・講師  堤 克政(高崎市柳川町)



【略歴】慶応大法学部卒。高崎経済大大学院修了。高崎藩家老などを歴任した堤家史料等を基に地域の歴史を伝承する。著書に「ちょんまげ時代の高崎」(あさを社)。

高崎藩の城付領



◎合併前の市域と同じ



 歴史の地平に立つ今日を学ぶきっかけになればと、高崎の江戸時代をお伝えしてきたが、誤った評価や誤解されがちな言葉に気が付く。例えば、柳沢吉保や田沼意次の評価は、間違った情報により曲解され、映画や小説の悪人像が定着してしまい、なかなか修正できない。言葉では「藩」が誤解されがちである。江戸時代から大名家や領地を表す言葉として「高崎藩邸」とか「高崎藩領」などと使われていたと思われている。

 ところが、当時は藩という言葉は使われず、「松平家屋敷」とか「松平右京大夫領分」などと言っていた。藩という言葉は、1868(慶応4)年に明治新政府が城や陣屋の置かれた大名の本拠地名を使って、初めて藩と呼ぶことにした。1872(明治4)年の廃藩置県で藩は「県」に変わり、公式には4年間しか使われなかったが、所在地が分かりやすく組織として説明しやすいためか、今日まで映画や小説だけでなく学問・研究の世界でも使われている。

 さて、藩から県に変わったためか、薩摩島津家や安芸浅野家などの大藩は鹿児島県や広島県に、高崎や吉井など中小藩は、高崎市や吉井町といった行政地域として連想される。島津や浅野といった外様の大大名は他所へ異動せず、その領地は今日の鹿児島県や広島県に近い領域であった。しかし、徳川の家臣から大名に成り上がった譜代の有力藩は、転封(異動)が頻繁に行われ、石高だけでなく領地の範囲までが変わった。むしろ前任者と同じままの方が少なく、加えて、本拠地から遠く離れた他国に、「飛地」という領地をあてがわれることが多かったので変動が激しかった。

 例えば、佐倉藩(千葉県佐倉市中心)は藩主が12家も代わったうえ、石高も3~11万石の間を増減し大名家ごとに領地が変動。また、前橋藩最後の松平家は17万石の約65%が飛地で、6カ国28郡にも分散しており、領地の多くは前橋周辺外という状況である。

 このような中で、高崎藩主は6家と譜代藩の中でも交代が少なく、酒井、戸田松平、藤井松平、間部の各氏は5万石、安藤氏と大河内松平氏は加増の際に飛地が与えられたが、城付領(城下をとりまく領地)は5万石で、領地の村々は城下周辺に集約されていた。飛地についても、江戸時代後期の大河内松平家8・2万石についてみれば、一ノ木戸(新潟県三条市)銚子(千葉県銚子市)野火止(埼玉県新座市)の3カ所に約3万石とまとまっていた。

 現在の行政地域と藩領は異質のもので一概に比較はできない。ただ、全国的には城下の4~5里圏に広がる藩が多い城付領が、高崎藩は2里圏内の平地にまとまっていた。平成の合併前の市域とほとんど同じである高崎藩城付領が、今日の高崎発展の基盤につながる歴史の一端である。






(上毛新聞 2011年11月5日掲載)