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NPO法人「三松会」理事長  塚田 一晃(館林市高根町)



【略歴】東京都出身。曹洞宗大本山總持寺などで修行後、源清寺副住職に着任。1995年に三松会設立。両毛地域初の阿波踊り団体「上州みまつ連」代表も務める。


布施とは



◎お金や物なくても施し



 先日、某お寺さんが「布施なきお経は読むべからず」と声を大きくして言っていた。昔からある言葉で、私も以前から何度か聞いたことがある。どこかの高僧が唱えた言葉で、深い意味を持つ言葉ではあると思うが、私には「お布施を包んでいただけないならお経なんてあげる必要はない」と唱えているようにしか思えなかった。まともに受けるなら、目の前でホームレスの人が亡くなっていても、お坊さんでありながら何もせずに素通りしてしまうようなこととも受け取られかねない。

 仏教では「無財の七施」といって、お金や物がなくても施しができることを説いている。

 一、眼施「げんせ」優しいまなざしで人に接する。

 二、和顔悦色施「わがんえつしきせ」にこやかな顔でみんなに接する。

 三、言辞施「ごんじせ」やさしい言葉をかける。

 四、心施「しんせ」思いやりの心を大切にして他のために心をくばる。

 五、身施「しんせ」自分の身体でできることを奉仕する。

 六、床座施「しょうざせ」自分の場所や席を他の人に譲る。

 七、房舎施「ぼうじゃせ」自分の家を他の人のために提供する。

 これらの布施を受け、このことに対し、お坊さんがお経をあげたり説法することを法施「ほっせ」と言う。

 もちろん、お寺を維持するためには多くのお金がかかるから、お金としての布施も必要である。しかしながら、布施という意味をきちんと説いているお寺はどれだけあるのか、疑問に思うときがある。私のいるお寺でさえ、法事の申し込みなどを受けたとき、料金はいくらですかと聞いてくる人がたまにいる。その時はとくとくと布施に対しての意味を説くのだが、お布施イコール料金と思っている人が年々多くなってきているような気がする。

 それは仏教界に責任があると思うが、このままではどうなるか不安になる。確かに、冒頭に書いた言葉のように、先に布施をいただかないで、お経をあげたり説法をして、そのあとに布施をいただいた場合、布施でなく料金になってしまうのかもしれない。

 だから「布施なきお経は読むべからず」という言葉が生きてくるのかもしれないが、きちんと理解しているお坊さんが世の中にはどれくらいいるのだろうか?

 また、法を説く時間や場所がお葬式や法事の時しかなくなってきたのは悲しいことかもしれない。しかも、その場ですら法を説かないと仏教そのものがどうなるか不安である。現在「葬式仏教」と言われるなかで、葬式もしないで火葬だけする「直葬」が増えてきた。葬式仏教から葬式を取ったらいったい何が残るのだろうか。







(上毛新聞 2011年11月17日掲載)