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群馬工業高等専門学校准教授  三上 卓(前橋市南町)



【略歴】大阪府吹田市出身。徳島大大学院修了。博士(工学)。専門は地震工学、橋梁(りょう)工学。東日本大震災津波避難合同調査団に参加、岩手県山田町・宮城県石巻市を調査した。


専門家として見た震災



◎「命救う使命」芽生える



 今、私は宮城県石巻市にあるホテルでこの原稿を執筆している。3月11日に発生した東日本大震災の津波避難合同調査団に参加しているからである。

 震災当日、私は高専の研究室で地震に遭遇した。大きく長い揺れで、あれほどの揺れを体感したのは1995年1月17日、阪神大震災を引き起こした兵庫県南部地震以来である。卒業論文の締め切り間近の大学4年生で徳島におり、大阪出身で地震慣れしていない私は微動で目が覚めた。テレビの電源を付けたと同時に、激しい揺れに襲われたのを今でも記憶している。実際には震度4であったので、それほど衝撃的な揺れだったのだろう。 震災後4カ月たったころ、自分の目で地震被害を見るため、実家のある大阪府吹田市からJRで神戸に入り、一日中、徒歩で橋梁りょうやビル等の被害を見て回った。わずか3日間であったが、甚大な被害を目の当たりにし、将来の目標を決めたのだった。

 東日本大震災発生から1カ月たった4月12日~14日に、東京大学地震研究所の後藤洋三特任研究員のお誘いで被災地調査に向かうことになった。当時、ガソリン不足や宿泊場所確保の困難はあったが、4月12日には東北道で盛岡に入り、国道106号を通って宮古市を目指した。宮古には薄暗くなり始めた17時ごろに到着した。目の前の国道に大きな漁船が横たわっているのを見て、何事が起こったのかという驚きがあったのだが、この景色は単なる序章であったことを翌日に知るのであった。

 翌朝6時から本格的な調査に向かった。宮古市田老町の巨大な防潮堤の被害を調査し、三陸海岸沿いの国道45号に沿って調査を重ねながら、ひたすら南下した。当時は、国道上のがれきは撤去されていたが、その他は残されたままで、山間を抜け平野部に下りていくたびに目撃する膨大ながれきを見るたびにつらくなった。あの光景は忘れもしない。戻ってきてから学生らに聞かれると「心が痛かった」と答えていたのはそのままの心情である。

 13日の夜は偶然にも気仙沼で素泊まり3千円の宿が確保できた。浸水域からわずか数百メートルであったが、何の被害もなかった。翌14日は仙台市若林区にある荒浜小学校を訪れた。周辺の住宅は大半が津波により流出しており、孤立した校舎内の教室には多くの毛布が敷かれ、生徒が学校に取り残されている状況がうかがい知れた。そんな中、教室の黒板には「こんな時こそ、思いやり・感謝」という文字があった。

 この調査や現在実施している津波避難合同調査団ヒアリング調査を通して、阪神大震災では感じなかった「地震研究者は1人でも多くの命を救う使命がある」という意識が私の中に芽生えてきている。





(上毛新聞 2011年12月20日掲載)