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県立土屋文明記念文学館学芸員  佐藤 浩美(高崎市保渡田町)



【略歴】県立女子大大学院修了。高村光太郎、水野葉舟に関心を持つ。著書『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後』。


心を遣う読書



◎思いやり、受容する



 文庫とフリースを手に、コーヒーショップに向かう季節が来ました。同じ本を何度も読み返すことはあまりしないのですが、この時期の「クリスマス・カロル」は、例えば、春に同じ桜の木に会いに行くように、素通りができない一冊です。

 けれど、そう思っても、知らず知らずのうちに読書に充てる時間は少なくなっていく。だから、本が売れないことを耳にするたびに、その理由を多忙な時代やメディアの豊富さに求めてきました。しかし、もし読まれなくなってしまったのが文学作品に偏るのだとしたら、失われつつあるのは読書の時間や習慣ではなく、それらに親しむスキルだといえるかもしれません。

 読書は心を豊かにする、と聞かされて育ちました。それは、「心を遣(つか)う読書」だから、心が豊かになるのだと思ってきたし、今でもそうだと思っています。読書といった場合の本を文学作品だけに限るつもりはないけれど、それでも思うのは、例えば初めて教科書で「こころ」を読んだ後に残ったし、ん、とした心持ち、それが、決して他のメディアでは補填(ほてん)できない感情の重みであったことです。

 一篇ぺんの小説や詩を読むことは、その世界を我が身に受け止め、同じ時間を生きてみることであるかもしれません。しかし、現実がそうであるように、どんなに寄り添うことができたとしても、作品はすべてを明らかにしようとはしてくれない。だから、私たちは想像し、自然と思いやってしまうのだと思う、そこに語られているはずの、根源的悲しみや、あるいは、愛するということについて。

 そして、たぶん、このた、ゆ、た、う、ことが読書への体力を育むのであり、やがて、本が人生の導き手や娯楽の友となっていくためのステップでもあると思うのです。

 思い出してほしいのは、「心を遣う読書」。絵本の扉を開いた時から始まって、おそらく、誰もが手にしたことのある、心を内側から温めたあの一つの記憶を。そして、今でもその幸福は、私たちの隣に腰を掛けているのです。

 ごく最近のことですが、本についてふれあう機会がありました。お互いにとてもたくさんの、でも、まったく違う傾向のものを読んでいて、あるいは、その違いを含んでいるからこそ近づこうとしていたこのコミットを、あえて言葉にするとしたら、読書が決して孤独な作業だけではないことの啓示だと言ってもいいように思うのです。

 文学作品を読むスキル、それは、思いやり、受容することです。気負わず、根気よく向き合うこと、ただそれだけです。それは人が生きることと共通した営みであるように、私には思われます。





(上毛新聞 2011年12月23日掲載)