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群馬パース大学長  小林 功(前橋市三俣町)



【略歴】渋川高、群馬大医学部卒。同大学院修了。医学部附属病院長など歴任、2005年から現職。群馬大名誉教授。歌誌「地表」同人。10年度県文学賞(短歌部門)受賞。


私の履歴書



◎挫折に耐え人生貫こう



 誰でも思い通りにいかないのが人生であろう。それを挫折と言うなら、人生は挫折の連続かもしれない。

 まず、本欄を担当するに当たり、私の個人史の概略を述べさせていただく。

 私の父は警察官で、最初の赴任地が高崎で、私はここに生まれた。幼少のころは体が弱くて、かぜをひくと、すぐ嘔おうと吐し全身がだるくなった。自家中毒症(周期性嘔吐症)であった。かかりつけ医にブドウ糖の注射とリンゲル液の皮下注射を受けたことは鮮明に覚えている。

 幼稚園は3カ月で辞めた。家以外のトイレに入る勇気はなかった。過保護の長男だった。

 昭和20(1945)年8月の終戦は父の故郷利根郡川場村で迎えた。父の転勤先、前橋市へ。住まいが近かったので、群馬大学の附属小学校4年の編入試験を受けたが、不合格。数学ができなかった。おかげで城東小学校で親友ができた。やがて父の職場の転勤に伴い、一家は下仁田、松井田、沼田、渋川、原町、伊香保へ転居。私は渋川高校から、群馬大学医学部志望課程へ合格。しかし、ここは医学部ではなかった。2年後、専門課程へ進むための試験が待っていた。学内浪人も多くいたし、全国公募であった。そのまま医学部専門課程へ進級できたのは、40人中11人。他の29人は不合格で、しかも退学となった。私もその1人であった。「また来年もあるよ」と温かいうどんを作って励ました亡き母の姿が忘れられない。翌年は20人の補欠募集。既に下の学年から40人の進学課程(ストレートコース)ができていた。教育制度改革の波をかぶった。翌年、群馬大学と信州大学ともに合格したが、今思うとぞっとする。

 いざ医学部専門課程に入ってみると、暗記暗記の連続。家庭教師と奨学金で卒業し、1年間のインターン終了後、当時の群馬大学七條内科へ入局。以後、数年間は無給のため、開業医の先生のところでアルバイトしながら、患者さんの診察や研究生活が続いた。昭和43(1968)年から3年間の米国留学を終え、帰国した際、研究室は大きく変わっていた。直接指導を受けた先輩は信州大学教授となり転出。誘われたが、私は母校にとどまった。ここまでは、まあ順調だった。

 40歳に入り、母校の教授選に勧められ、出馬するが敗れた。人生の厳しさ、今で言う「うつ状態」が続いた。そろそろ大学を辞める時かと思っていた時、また学内の教授選に推され、53歳にして教授職を得た。その後、病院の管理・運営にも関わり、平成13(2001)年退任。さらに民間病院を経て、現在の医療系大学の教壇にも立つ毎日である。

 提言を一つ。若者よ、挫折に耐え、人生を貫いてほしい。






(上毛新聞 2012年1月3日掲載)