,

視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
和紙ちぎり絵作家  森住 ゆき(埼玉県熊谷市)



【略歴】桐生市新里町出身。1984年偕成社「絵本とおはなし新人賞」、85年群馬県文学賞児童文学部門受賞。著書に『アメイジング・グレイス』『ぶどうの気持ち』。


「遊び」としての創作



◎生きていく上での支え



 初めて就職したのは、前橋市にある某会社の広報部門でした。デザイナーは新人の私と、先輩の女性と二人だけでしたが、上司がちょっと変わった人で、私たちは事あるごとに「会社だけにおさまる人間にはなるな」と言われ続けました。 その上司も会社勤めとは別に木彫家として活動していたのですが、ある日「ギャラリーを借りてやったから二人で何かやれ」と言うのです。県庁前通りにあった小さな画廊でした。

 最初は冗談かと思いましたが、上司の話は具体的でした。何かを生み出す状況に自分を追い込むくらいの気概と遊び心を持て、というのが持論のようでした。業務命令のようでもあり、先輩は以前から描いていたアクリル画を集中制作することになり、切り札のない私は当時たまたま注目していた和紙ちぎり絵に取り組んでみることにしました。

 まず発表の場ありき。絵に描いたような泥縄エピソードですが、「二人展」と称したそのイベントは以後定期開催となり、先輩が結婚で県外に越すまで続きました。不特定多数の方々の反応を楽しむことを知った私たちは、思いがけない「心の遊び場」を見いだしたのです。私の創作活動の素地はこの時期に固まったと言ってよく、勝手にギャラリーの手配をしてくれた当時の上司には(支払いはしてくれませんでしたが)今も感謝しています。

 絵を売るでもなく、したい仕事を細々と続けてきただけで、絵で食べているとも言えず、「ちぎり絵作家」という肩書きにはためらいを感じます。私はいまだに創作は「遊び」だと思い続けており、生活のためには全く別分野の職に関わってもいるからです。ただ、食べてはいないけれど、「支えられて生きてきた」とは思います。「遊び」ならではの、人生の踊り場的な豊かさを実に多く味わうことができたからです。

 私の母は70代半ばで突然短歌を始めました。愛好者の会に入門し、今では上毛歌壇に時々掲載されるのを楽しみにしています。農家のエプロン姿しか知らなかった私は、母の詠む歌を通して、彼女の思いがけない叙情性や鋭い観察眼に目を見張ることになりました。母が歌詠みという「遊び」を始めてくれたおかげで、私は彼女を人間としてより深く理解し、近づくことができたと感じています。

 平安時代の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」は「遊びをせんとや生まれけむ」と歌います。人生の「遊び」は、お金で買えず、損得勘定から遠く、やや手間がかかり、しかも何の足しにもならない感じがするのがよいと思います。テーマを持っている方は、ささやかな形でも公表してみると、拓(ひら)けるものが必ずあります。若い日の私たちのような「泥縄」も、冒険ですが意外とオススメです。





(上毛新聞 2012年1月20日掲載)