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視点 オピニオン21
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新島学園中学・高校校長  市川 平治(高崎市倉渕町)



【略歴】東京農工大大学院修了。14年間の県立高校教諭を経て、家業の林業経営。旧倉渕村議を12年間務め、2002年から4年間、最後の旧倉渕村長。07年から現職。


上毛かるたと新島襄



◎「平和の使徒」を考える



 群馬が全国に誇れる三つの宝として、「尾瀬」「群響」「上毛かるた」が挙げられるという。中でも上毛かるたは、私たち群馬っ子にとって、最も身近な存在と言えるかもしれない。私が新島襄の名前を初めて知ったのも、紛れもなく上毛かるただった。「平和の使徒新島襄」の読み札に合わせて、立派な口ひげを生やした蝶(ちょう)ネクタイの肖像画を追った小学生時代の思い出も懐かしい。

 ところで、上毛かるたの読み札は、群馬の風土・歴史・人物・産業を、具体的事象によって、極めて分かりやすく読み込んでいるのが特徴である。しかし、新島襄と内村鑑三については他の読み札と異なり、いささか抽象的であるといえる。実際に、私も「平和…」と聞くだけで「新島襄」に、「心…」と聞くだけで「内村鑑三」に、即座に直結してしまい、なぜ、平和の使徒なのか、なぜ、心の灯台なのか? と、あらためてその意味を考えたことはなかったように思う。

 そこで今回は、新島襄がなぜ平和の使徒なのか? という話題について、新島短大の山下智子准教授の論文(同大紀要30・31号)を参考にして触れてみたい。

 さて、上毛かるた「生みの親」である群馬文化協会の浦野匡彦に、それを提案した「原案者」は、安中出身のクリスチャン須田清基である。そして「平和の使徒」と、「心の灯台」の読み札の作者も須田であった。しかし、その意味を直接本人が説明した資料は、今のところ見つかっていないという。つまり、「なぜ?」に関する作者の意図は推測するしかないことになる。

 山下論文では、2~3の須田の著作から、新島襄に対する須田の思いを引用し「ここで言う平和とは、単なる戦争と平和という概念ではなく、新島襄が群馬に伝えたキリスト教により、県民が博愛主義の大切さに目覚めたことが、平和の使徒と詠んだ主な理由であろう」と考察している。

 また、須田は安中教会において、非戦論者・柏木義円から洗礼を受けている。その柏木は新島の直弟子であり、須田の脳裏で新島と柏木が重複したことも十分に考えられよう。さらに付け加えれば、明治15年に安中を訪れた新島襄は、原市で「地方教育論」という演説を行っている。

 その演説草稿によれば、地方において真正の教育を実現させる意義を述べた後に、「海陸軍ヲ増スハ弥末ノ浅論ナリ」と結んでいる。富国強兵が国論であった時代に、軍備拡張よりも教育の重要性を説いた新島襄の言葉は、まさに「平和の使徒」にふさわしいと思う。

 なお、「使徒」と書いて、須田は「しと」と読むつもりだったが、専門的で一般の理解が難しいだろうという理由から「つかい」と読むようになったというエピソードもある。






(上毛新聞 2012年1月24日掲載)