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視点 オピニオン21
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県立土屋文明記念文学館学芸員  佐藤 浩美(高崎市保渡田町)



【略歴】県立女子大大学院修了。高村光太郎、水野葉舟に関心を持つ。著書『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後』。

女川光太郎祭



◎守るべきもの知る強さ



 未曾有の震災から、もうすぐ1年がたとうとしている。今なお傷跡の残る宮城県女川町の、ある一つの物語をここに書き留めておきたい。

 昨年8月、1年ぶりに訪れたその町に、かつての面影を見ることはできなかった。当然の風景として町の大半を占めていた漁船は一隻もなく、クレーンやダンプカーが黙々と瓦礫(がれき)の撤去にあたっている。海猫の声もなく、粉塵(ふんじん)が霧のように立ちこめる。

 昭和6年、彫刻家で詩人でもある高村光太郎は、時事新報社の依頼で三陸を回り女川町に滞在、この旅の印象から「霧の中の決意」、「ゆつくり急がう」などの詩や、紀行文がうまれた。それを知った女川町の画家・K氏が自ら発起人となって女川光太郎会を結成、さらに町民に寄付を募って詩碑を建立すると、以後、毎年高村家や研究者を招いて顕彰式典を行ってきた。詩碑のある海沿いの公園内に会場が設けられ、仕事が終わった町民がその灯(あかり)をめがけて集ってくる、それは、そんな地元に根ざしたのどかな祭典であった。だが、海を愛し、生まれ育ったこの町に文化の灯りをと願い続けたK氏は、3月11日、津波にのまれ、帰らぬ人の一人となった。

 「地獄のようでした」。被災した人々は口々に語る。「家が丸ごと流され、その家に人がいるのが見えるのに、沈んでいくのを黙って見ているしかなかった」「寒くて寒くて、3日間食べるものもなく過ごしたけれど、どこからともなく回ってきた飴あめで、何とか飢えをしのぎました」。突然降りかかった災害、多くを失った悲しみに何とか理由を見いだし、現状を受け入れようとする痛々しい心の動きが、そこにはある。

 傷ついた心のどこに、そんな力が潜んでいたというのか。周囲の予想を覆し、避難所となった小学校の一室を借りて、昨年8月9日、第20回の女川光太郎祭は開かれた。どんな状況下にあっても、守るべきものを知る人間の強さが胸を打つ。そして、もう一つ添えておきたいのが、K氏に代わって式典を開催したのが、長い間想(おも)い続けてやっと結ばれたK氏夫人であったことである。夫人は、夫が愛した光太郎の一節を謳(うた)って、この会を閉じた。「肝心な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるいする事、生きる事です」。二人がともに暮らせたのは、わずか1年あまりでしかなかった。

 一人の人にとっての真実は万人に通じることだという。そうであるならば、この町で愛と信念に生きた一つの物語がもう一度あの日の思いを新たにして、震災の記憶が薄れることなく、被災地と結ばれた絆が絶えることなく続いてほしいと、心から願う。

 復興は、これからである。







(上毛新聞 2012年2月17日掲載)