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視点 オピニオン21
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新島学園中学・高校校長  市川 平治(高崎市倉渕町)



【略歴】東京農工大大学院修了。14年間の県立高校教諭を経て、家業の林業経営。旧倉渕村議を12年間務め、2002年から4年間、最後の旧倉渕村長。07年から現職。


大河ドラマに新島八重



◎力強く生き抜いた生涯



 昨年6月、私たちの耳にビッグニュースが飛び込んだ。「平成25年のNHK大河ドラマが新島八重に決まった」というものである。

 もちろん、多少なりとも新島襄に連なる立場の私たちは、新島八重という人物が何者であるかは知っている。しかし、全国的に考えたら、今の時点で新島八重と聞き、その人物像を的確に説明できる者は少数派ではないだろうか。ドラマ化が発表されてから、上毛新聞でも新島八重に関する記事が何回か掲載されたので、群馬ではそれなりに人物像が知られてきたが、全国的には、「なぜ新島八重が大河ドラマに…」という疑問の方が大きいと言えるだろう。

 だが、八重が福島県会津若松の出身ということを知れば、その名を初めて聞く人でも納得できるのではないかと思う。会津藩士の娘として生まれ、会津戦争から昭和初期の世まで、力強く、さわやかに生き抜いた八重の劇的な生涯は、大震災の被害から復興に向けて、たくましく立ち上がろうとしている被災地の方々にとっても、大きなエールとなり、生き抜く希望を生むものとなろう。

 ところで、八重と群馬の関係といえば、実のところ安中が夫の故郷(正確には、夫の父祖の地)ということだけである。しかし、その夫、新島襄が国禁を犯して渡米し、1874年に帰国して最初にキリスト教の伝道を行った地である安中は、キリスト教徒となった八重にとっても特別な存在であったことは想像に難くない。

 さて、八重の生涯については最近、新聞や週刊誌、テレビ等で取り上げられて、徐々に周知されつつあり、大河ドラマでどのように描かれていくのか、という興味もあるので、ここではあえて触れないでおくが、上毛新聞に掲載された記事と写真に関する補足的なエピソードを紹介してみたい。 まず、今年1月7日付の記事に掲載された新島夫妻の写真である。新聞では不鮮明だが、よく見ると八重は和服に革靴を履き、造花のついた帽子を持ち、帯には懐中時計の鎖が下がっている。まさに和洋折衷。ドラマでも一つのヤマ場になると思われる同志社の学生たち(特に徳富蘇峰)との確執で、妖怪の「鵺(ぬえ)」と呼ばれた片りんが目に見えるようである。 昨年10月4日付の記事では「新島襄先生永眠20周年紀念会」で安中を訪れた時の記念写真と、帰京後に安中教会の女性4名あてに、連名で送られた礼状の存在が紹介されている。この手紙には、謝辞や近況とともに「幸い、皆様から頂戴したお恵みで羽織を新調する事ができました」とも記されており、八重の人柄がしのばれてほほ笑ましい。

 近頃、新島夫妻に関する問い合わせもあり、現在、あらためて本学園所蔵の資料整理に取り組んでいる。







(上毛新聞 2012年3月18日掲載)