,

視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
.
県立土屋文明記念文学館学芸員  佐藤 浩美(高崎市保渡田町)



【略歴】県立女子大大学院修了。高村光太郎、水野葉舟に関心を持つ。著書『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後』。


光太郎と智恵子



◎想いの力「愛の詩集」に



 菜の花が咲き、桜が咲いて、四月がやって来る。春には桜がなくてはならないし、アメリカの友は満開の桜の知らせに豊かな実りを思い描くが、花の美の喜びに果実の美味は敵かなわない。

 そういう日本の春に囲まれた染井霊園(東京)に、詩人・高村光太郎と妻智恵子は眠る。仏師・光雲の元に生を受け、生まれながらにして彫刻家となるべく成長した光太郎は、海外留学を経て真の芸術を志すものの理想と現実との落差に悩み、頽たいはい廃生活へとのめり込む。その光太郎の前に、「クルスの代わりに」「現れた」のが、福島の裕福な酒造業の家に生まれ、両親の期待を一身に背負って成長した長沼智恵子であった。日本女子大学に進学した智恵子は、当時「新しい女」と呼ばれた開明派の女性だったが、友人の紹介で出会った二人は互いに心を通わせ合い、光太郎は智恵子への想おもいを詩に綴つづるようになる。

 大正3年、二人は籍を入れない同どう棲せい同類生活を始めたが蜜月は短く、昭和6年、智恵子に精神異常の兆候が発現すると、智恵子の看護や長沼家の問題を抱えた光太郎は、切望してやまない芸術活動を放棄せざるを得なくなった。「仕事といふ使命さへ無ければ一生をチヱ子の病気の為に捧げたい気がむらむらと起ります」「チヱ子可 かわい哀相そうにて小生まで頭が狂ひさうでした」「私を精神的廃●から救つてくれたあのチヱ子にせめて一日でもいつものやうにして会ひたい願で今一ぱいです」。友人に宛てた書簡だけが、光太郎の苦しい胸の内を知る。昭和13年、千点を超す紙絵を残して智恵子は他界、光太郎は、青森県十和田湖畔に建つ「乙女の像」に愛する妻の面影を刻み、昭和31年4月2日、春の雪が降りしきる中、その生涯を閉じた。智恵子への想いを綴った詩は、やがて一冊の赤い詩集『智恵子抄』へと結実した。

 美しいものは、その輝きが純粋であればあるほど、どこか人を切なくさせる。「たぐいまれなる愛の詩集」に光を与えたのは、こ、の、人、で、な、け、れ、ば、だ、め、だ、と、い、う、人、と出逢あった光太郎の、幸福と苦しさの時間であったのかもしれない。

 そして、それらすべてを覆い尽くすかのように、桜は春の雪となって二人の墓碑に降り注ぐ。日本語には、一般に花が「咲く」ことを表す「ゑむ」という言葉があって、 つぼみ蕾が開花の時を迎え、内側からの溢あふれる生命力によってぽんと開く、それを指すのだが、人も溢れる喜びや感動で心がいっぱいになった時、その想いの力が「頬ほほ」を「笑ゑ」ませ、「頬笑み」が生まれでるのだという。優しい想いが人を笑ませ、愛の記憶は、燃料のように燃え上がって内側から人を暖める。恋愛は、人生の花。絆が見直された一年を経て、もう一度この「愛の記憶の詩集」に込められた、人を愛すること、ともに生きることの意味を見つめてみたい。



                                   編注:●は"順の川が禿"





(上毛新聞 2012年4月2日掲載)