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視点 オピニオン21
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映画監督  野田 香里 (東京都世田谷区)



【略歴】東京都出身。学習院大卒。米国でMBA取得。海外生活を経て映画を撮り始める。著書に『ニューヨークからの採用通知』など、訳書に『ハンナモンタナ』など。


アリゾナの空に重ね



◎文化は自分の中の誇り



 赤いスーツケースはなかなか出てこなかった。生まれて初めてのアメリカ。回り続けるベルトコンベアを前に、心細さが増した。24歳、念願かなってアメリカの大学院へ。職場では大きな花束と、励ましの言葉で送り出された。

 空港を出る。強い日差しにくらっとした。タクシーに乗り込んだ私が見たのは、激しくダンスを踊っているかのような、さまざまな形の巨大なサボテン。まさかその後、半年もしないうちに、この世で最も愛する植物がサボテンになろうとは、あの日、想像すらつかなかった。

 そしてもうひとつ。忘れられなくなるものがアリゾナにはあった。

 ……昨年3月11日。その日、それまで準備してきた歌舞伎の授業の件で、三鷹市の小学校の校長先生から連絡が来た。「児童の帰宅で対応に追われています」。歌舞伎の授業どころではないと感じた。

 それから数カ月。折しも準備が進んでいたのは、8月6日の渋川市民会館での映像上映だ。2年ほどかけて撮りためてきた渋川市の上三原田歌舞伎舞台の映像を上映し、「文化力とは地域力」というテーマで話をする予定だった。

 東京では上映したが地元群馬では上映の機会がなかった映像。渋川市の協力を得て、上映が実現した。しかし、多くの人が家を流され、命を失っている現状を前に、私は何を伝えるのか。生死の問題の前には文化の力など何もない。もしあるとしても、無傷の私が語る言葉にどれほどの説得力があるのだろう。

 何カ月も迷っていた私に、これで話ができる! と気づかせてくれたのは、アリゾナの空だった。

 サボテンの砂漠で初めて見た360度の空。ビルで隠された東京の「かけらの空」しか知らない私にとって、絵の具をぶちまけたような青の深さと広さは衝撃だった。

 あれから何年たつだろう。東京の、かけらの空に、ふっとアリゾナの空を見る。そのたびに、すうっと心が軽くなり、あの空の下で過ごした困難だらけの青春の日々がよみがえる。

 その瞬間、私の体内に流れこんでくるのは、あの時と同じ、明るい予感だ。どんなにつらい時も、自分がたしかに自分の足で歩いていけるという、それはゆるぎないメッセージだ。

 文化とは、私にとっては小さな「かけらの空」のようなものである。時の流れや空間を超えてもなお、自分の中で生き続ける、自分自身の消えない誇りだ。文化の力。誰にでも、そんなかけらの空がひとつやふたつ、心の中にあるのではないか。

 だからこそ、群馬の文化は守り、伝えていかなければ。人を最も強く、たしかに支える人生の鍵が、すぐ手元にあるのだから。

 今を、生きるために。






(上毛新聞 2012年4月27日掲載)