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群馬製粉社長  山口 慶一 (渋川市渋川)



【略歴】日本大学大学院修了。群馬製粉3代目社長として洋菓子用米粉「リ・ファリーヌ」や国産米100%の「J麵」を開発。食糧、気象などに関する著書多数。


辻口さんとの出会い(1)



◎日本人の食生活が激変



 私たちが普段食べているお米。主食であるお米の消費量は、1962年の日本人1人当たり118キロをピークに、近年は60キロを切り、ピーク時の半分にまで減ってしまいました。戦後わずか67年の間に日本人の食生活が大きく変化してしまったのです。その要因の一つは、アメリカの小麦を中心とした主食の洋風化が急速に進んだこと。もう一つは、これまで何千年にわたり培ってきた日本の伝統行事の結婚式や祝い事までもが西洋の方式に取って代わられたことです。例えば、お正月、ひな祭り、5月の節句、7月の七夕、お月見等の伝統行事が影を潜め、代わりにクリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、ハロウィーン等が日本の国のお祭りのようになってしまっています。

 私が子どもの頃は季節の伝統行事が毎月のように行われ、次はどんな行事があるのかわくわくしていました。その行事や、祖父母・父母を通して祖先への感謝や目に見えないものの大切さを学ぶことができたのです。そして、行事に欠かせないものとして、出される和菓子を食べるのも一つの楽しみでした。まだ、10年ほど前まではあちこちで行事が行われており、お祝い事には赤飯、結婚式には落雁や紅白まんじゅうをはじめとするお米から作られた和菓子が添えられ、それを食べて季節の変化や伝統文化の大切さ、祖先への感謝をしたものでした。

 私が調べてみたところ、伝統行事に使われていた和菓子の生産量のピークは1970年の後半であることがわかりました。興味深いことに、日本人が日常で着物を着なくなっていることを示す右肩下がりのグラフに比例して、10年遅れて和菓子の売り上げも同じように低迷していました。

 私は88年、商社に就職して、3年後の91年に家業を継ぐため群馬製粉に入社しました。弊社は70年にわたり和菓子の原料である米の粉を製造しており、伝統的な食品であるため、いつも安定して利益をあげられる会社であったのです。その弊社に予期しなかったとてつもない荒波が押し寄せました。激変と言ってもいい日本人の食生活の変化が火の粉のようにわが身に降りかかってくるとは思いもよりませんでした。

 私が入社した当時はバブルが崩壊する寸前で、日本人の大半は浮かれており、渋谷、新宿、銀座などの繁華街は最後の宴とばかり、1年中お祭り騒ぎの様相を呈していました。お菓子も1個1000円以上するケーキが飛ぶように売れていました。

 ちょうどこの頃、日本の洋菓子のコンクールで、無名であった若き青年、辻口博啓氏が最年少にもかかわらず、あらゆるコンテストで連戦連勝を繰り広げ、話題になり始めていたのです。







(上毛新聞 2012年5月27日掲載)