,
| 視点 オピニオン21 |
| ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース |
| . | |
|
|
◎美しく懐かしい風景 赤城の小梨が満開を迎える時が来た。季節は同じように巡って来るのに、その微かな息づかいの違いで、山は時にまだ見ぬ表情を覗(のぞ)かせる。この冬の後に必ず春が訪れるという自然の摂理は、忘れかけていた希望の存在を映し、新鮮な驚きをも人に届けてくれるのではないか。 詩人・高村光太郎が赤城を初めて訪れたのも、明治37年の、ちょうどこの季節であった。香具師(やし)であった祖父・兼吉の影響や、父・光雲の産土神が赤城神社だったこともあって光太郎と赤城とは縁が深く、以来、何度もこの地を訪れ、四万や沼田などへも足を延ばしている。やや遅れて志賀直哉ら多くの文人たちも赤城を訪れるようになるが、それは、日本に避暑の習慣が徐々に定着し、鉄道の普及とも相まって、都会に倦(う)んだ人々が自然に安らぎを求めるようになる、そういう時代の始まりでもあった。 光太郎を赤城に導いたのは、美しい自然のみならず猪谷旅館の娘・千代の存在にあったと言っていい。千代は、スキーで名をはせた猪谷六合雄の姉にあたり、武道をたしなみ、松葉と称して歌を詠む開明派の女性だったという。千代が光太郎に与えた鮮明な印象は、赤城滞在を機に生まれた相聞歌「毒うつぎ」、戯曲「青年画家」などの作品群へと繋がり、光太郎最初期の詩「秒刻」の中でも、その面影を再現させることになる。千代は、一度青森に嫁ぐもののすぐに帰郷し、夏には多くの学生でにぎわった旅館の宿泊客の一人・大熊善吉と恋に落ちた。千代は、ほかに想(おも)う人のいた善吉の躊躇(ためら)いに気付くと、「熱烈な恋はどうせ道徳は伴いません」と告げ、善吉の決心を促したのだという。明治という時代に、自己に忠実であろうとするその心持ち。これは、後に光太郎の妻となる長沼智恵子の「わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの」という言葉と、どこか通底するものがある。年こそ違え、智恵子と千代は、奇くしくもともに5月20日にこの世に生を受けた。 人はさまざまな思い出を重ね、その追憶の中で、心に自分だけの忘れえぬ風景があることに気付く。その懐かしさを伴って訪れる風景は、手負いの獣のように傷つき荒ぶる心さえ癒やし、育むのに難しい自分を愛する心を取り戻す。忘れえぬ風景。時を閉じ込め、心の奥底に寄り添う心象風景。人の抱える「懐かしい」、その想いは「懐く」に根をおき、対象への寄り添うような愛情を含む。後年、智恵子の病の兆候が訪れた時、光太郎の足はおのずと赤城へと向いた。まるで救い手を求めるかのように、赤城の自然に、若き日の自身の面影に寄り添う光太郎。美しく懐かしい赤城。光太郎を包み、悠久の時を経て、私たちを育むこのかけがえのない風景と、幾度となく廻(めぐ)る季節を過ごしていきたい。 (上毛新聞 2012年6月4日掲載) |