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県自然環境調査研究会会員  谷畑 藤男 (高崎市竜見町)



【略歴】群馬大教育学部卒業後、理科教諭として千葉、群馬の小中学校に38年間勤務。日本野鳥の会、県自然保護連盟、県自然環境調査研究会などに所属。


カワウの旅



◎水辺環境の変化で迷走



 カワウは全身黒色の大形水鳥で、巧みに潜水し魚を捕食する。魚の豊富な内湾や河口に生息し、関東地方では千葉市大巌寺町の大巌寺が集団繁殖地として有名であった。

 大巌寺は1548年に建立された浄土宗の古こさつ刹で、東京湾に面した広大な社寺林には最盛期5万羽のカワウが営巣していた。人との関係も良好で、群れが落とす大量の糞ふんは肥料として有効に利用された。1935年、千葉県は「カワウの集団繁殖地(コロニー)」として天然記念物に指定した。

 70年1月、大巌寺「鵜の森」を訪れた。枯死したクスノキの枝には20羽のカワウが止まり、抱卵中の巣は2つという集団繁殖地には程遠い風景が目前にあった。日本は高度成長期に入り、東京湾の埋め立てが進み、工場地帯からの排水は海を汚染した。森にも開発が迫り、カワウの食と住は失われた。私が訪れた翌年にコロニーは消滅、74年には天然記念物の指定が解除された。

 62年、上野動物園ではケージで飼育していたカワウを不忍池に放鳥した。カワウは池の小島で繁殖を開始した。放された親鳥は翼の一部が切られていたが、巣立った若鳥は自由に都会の空を飛ぶことができた。80年代には不忍池のカワウは2千羽を超え、浜離宮にもコロニーができた。巨大都市のビル街を飛翔するカワウの群れは有名になった。

 県内で初めてカワウの大群を観察したのは89年12月、伊勢崎市坂東大橋付近の利根川。V型の編隊が次々に上流を目指す。15分間に通過したカワウは8群624羽。東京で飽和に達したカワウの群れが餌不足の冬季に移動を開始した。以後、偵察飛行を繰り返すカワウの群れは、利根川の上流や支流で頻繁に見られるようになった。移動しながら、少数のカワウが各地の水辺に定着する。90年代後半には県内のダム湖やため池付近の林で営巣やねぐらが確認された。また分布は上流域まで拡大し、夏季には源流に近い奥利根湖にもカワウは生息するようになった。

 2007年8月、37年ぶりに大巌寺を再訪した。朱色の楼門や本堂は当時のままだが、社寺林の大半は大学キャンパスとなり、目前を京葉道が走る。カワウの消えた照葉樹の林にブロンズの鳥が翼を広げる「鵜の森の塔」が立ち、黒御影の石碑は「鵜の森」がここにあったことを告げていた。江戸時代から続いた楽園を追われたカワウは東京の動物園で奇跡的に復活した。そして都会育ちのカワウの一部は「放流魚の捕食」や「糞による営巣木の枯死」などの問題を背負い、内陸群馬まで分布を広げた。カワウの個体数増減や迷走には、利水や治水など人間の都合による水辺環境の変化が強く影響している。






(上毛新聞 2012年6月5日掲載)