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視点 オピニオン21
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映画監督  野田 香里 (東京都世田谷区)



【略歴】東京都出身。学習院大卒。米国でMBA取得。海外生活を経て映画を撮り始める。著書に『ニューヨークからの採用通知』など、訳書に『ハンナモンタナ』など。


グライダー速度



◎描く未来への着地導く



 地図は手元にあった。なのに気づくと迷子になっていた。雑音の多いヘッドホンから突然、緊迫した英語が響いた。「ただちにこの空域から去るように」。名指しで呼ばれているセスナ機は、間違いなく私である。

 指示に従い、1対1のコミュニケーション用の周波数にラジオを合わせると、管制塔とのやりとりが始まった。「高度を下げなさい。あなたはフェニックス国際空港の空域に許可なく侵入しています」

 「今いるところがわからないんです」。泣きながら私は叫んでいた。「教えて、私どこを飛んでいるんですか?」

 不時着の仕方は習っていた。幸いにもここはアメリカ、アリゾナ州。サボテンの砂漠の大地には、滑走路にうってつけのまっすぐな道路がすぐ見つかる。「いざという時は、車の途切れるタイミングを見計らって道路に着陸しなさい。それが一番安全だから」と教官は言っていた。けれど地上にいる人々の驚きと大騒ぎを想像すると、不時着する勇気など到底なかった。

 結局、フェニックスの管制官が最後まで誘導してくれ、管制塔代わりの小屋が1軒あるだけのローカルな飛行場に着陸した。涙で顔はぐちゃぐちゃ、放心状態で操縦席から動けずにいてふと顔を上げると、目の前に教官の姿があった。「国際空港からおたくの生徒が迷っている、と連絡があったよ。大丈夫、一緒に帰ろう」。温かな笑顔に、また涙がこぼれた。

 空を飛ぶきっかけは、カリフォルニアから来たルームメートのひとことだった。「ここアリゾナで一番したいのは、空を飛ぶことね」。空がどこまでも青く美しいのに感動し、留学先のアリゾナで大学院の勉強と掛け持ちでフライトスクールに通い始めた。

 一番好きだったのは着陸の直前だ。機首を上げ気味にし、グライダー速度と呼ばれる70ノットに速度を保つとエンジン音がすっと消える。風の中で、機体と自分が一体になる感覚。空気の軽さ。静けさ。このわずかな時間の集中力が、気持ちを落ち着かせ、勇気を与え、私を目指す場所への着陸へと導いてくれる。

 今でも何かする時に私にとって必要なのがこの「グライダー速度」だ。迷いにある時、心乱れる時、なかなかグライダー速度は訪れない。そんな時は間違った選択をし、気づかないうちに人を傷つけ、何かを攻撃し、保身の末に気流にのまれた機体のように右往左往してしまう。人間は間違いを重ねながら生きるしかないものだけれど、ある地点を目指し、そこに到達したいと願ったならば自分の描いた未来を信じ、心を定めて、自分自身をグライダー速度に乗せていくしかない。

 離陸は簡単、難しいのは着地の方だとソロ飛行は教えてくれた。どんな未来に着地するのか、今、私自身そして社会が試されている。






(上毛新聞 2012年6月21日掲載)