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視点 オピニオン21
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県衛生環境研究所所長  小沢 邦寿 (前橋市岩神町)


【略歴】大阪府豊中市出身。東大医学部卒。帝京大市原病院外科助教授、県循環器病センター(現心臓血管センター)副院長などを経て、200年から現職。


終末期医療のあり方



◎避けられぬ現実的議論



 先月、日本老年医学会は終末期医療における胃ろうなどの人工的な水分栄養補給について、その導入や中止、差し控えの判断の指針を発表した。また、日本透析医学会も終末期患者の人工透析の中止や見合わせに関する提言をまとめた。

 この十数年間に内視鏡的胃ろう造設術(PEG)が普及し、飲食ができなくなった患者に胃ろうを通しての栄養補給が容易に行えるようになった。確かに延命効果にはめざましいものがある。しかし、一方ではその弊害も指摘されるようになった。胃ろうからの栄養補給は、いったん始めてしまうと中止の意思決定が困難である。また、手段があるのにあえて差し控えるという判断は素人には難しいとの指摘が、家族や医療関係者からあがっていた。

 終末期医療のあるべき姿、終末期患者、特に高齢者や認知症合併例での延命のあり方に関しては、これまで多くの議論がなされてきた。いうまでもなく延命治療継続の当否に関しては明快な方針を示しにくい複雑な事情が存在する。ことは人の命に関係する問題であり、あくまでも生命を維持すべきとの延命至上主義を貫くのか、無益な延命処置は本人も家族も望まないとして、延命中止も選択肢として排除しないとの現実策をとるのか、思想や立場により意見が食い違うのは当然である。一般論としても意見の収斂れんを見にくい問題であることに加え、個々の事例により病態や環境が異なることから理非曲直を判然とさせるのはまず不可能である。

 これまで、日本人はこのような生命に直接関わる問題の議論を避けてきた経緯がある。医療界でも「生命の尊厳」という抽象観念をことさら称揚し、経済的・社会的現実論をいわば卑論・俗論として抑圧してきた傾向があった。

 私事になるが、私の母は90歳で認知症が進み寝たきりである。長男の私さえも認知できず、嚥えんげ下困難で十分な水分栄養の補給ができない。しかし、私は点滴も胃ろうも行わないと決め、自然の成り行きに任せようと考えている。手段があるのに差し控えることは、じつは本当につらい選択である。しかし、元気な時の言動からみて、母も私の選択に同意してくれるものと固く信じている。

 延命処置をめぐるこの手の議論で、生命至上論を主張されれば何人も反論できない。しかし、建前としては認めつつも現実的な解を模索するという了解が、議論の場においては共有されていなくてはならない。未曽有の少子高齢化に直面している日本社会にとって、適正な終末期医療の提供、医療資源の公平な配分と有効活用は避けて通れない大事な論点である。今回の二つの医学会の動きは、そうした現実的な議論の出発点になるという意味において高く評価できる。





(上毛新聞 2012年7月8日掲載)