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視点 オピニオン21
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独日翻訳者  長谷川 早苗 (高崎市吉井町)


【略歴】ドイツ語学校のゲーテ・インスティトゥート東京校やゲッティンゲン校などで約10年間学ぶ。2011年4月に初の翻訳本出版。ぐんま日独協会事務局員。


「必要」を知る



◎注力すべき点が見える



 以前、翻訳の仕事で製本や書籍修復について調べたことがあった。そのときに読んだ本の一冊がこれだ。『古書修復の愉しみ』(アニー・トレメル・ウィルコックス著 市川恵里訳、白水社)

 アメリカの高名な製本・書籍修復家ウィリアム・アンソニーに弟子入りした女性が、その仕事の世界を伝える。例えば第一章では、現在手がけている本の修復作業と、師との出会いが交互に語られる。作業の細やかさ、変色した紙の洗浄などにまず驚く。そして、師と著者の仕事への誠実な姿勢に惹かれていった。先達への敬意と、習得の喜びに満ちた本だった。

 その中に、特に印象に残った一文があった。紙の破れを直すために、色の近い紙を小さくちぎって貼る場面のことだ。「接着剤の選択は条件しだいで変わるが、一般的には、特定の作業をする上で必要最小限の接着力をもつ純粋な糊(のり)を使うのが理想である」

 翻訳の際にも意識する「必要最小限」という言葉が出てきたからだ。と言っても効率の話ではない。翻訳では目指すべき訳文を表すのに、ウイスキーのCMで昔あった「何も足さない、何も引かない」という言葉がよく借用される。もちろん、原文の一言一句をそのまま日本語に置き換えるだけでは伝わらない文章になってしまう。古書修復がなるべく原形を保とうとするのと同様に、原文の内容を過不足なく伝えるにはどうすればいいかが問題になる。

 それにはやはり「必要」を知ることなのだと思う。何が必要、重要なのかがわかれば、本当に注力すべき点が見えてくる。そしてそれは、「条件しだいで変わる」。訳す文章によって求められるものは変わってくるし、訳す人によって過不足の判定ラインも違うだろう。仕事を始めたころには、全体が見えなくて、注力すべき点がさっぱりわかっていなかった。

 私がドイツ語初学者にいつも薦めている『ドイツ語のスタートライン』(在間進著、三修社)は、この手の文法書にしては驚くほど説明文が短い。あの非常にわかりやすい解説を読むたびに、本当に大事なところをわかっている良例だと思う。

 『古書~』には、著者ウィルコックスと師のアンソニーのほかに何人もの職人が登場する。日本人もいる。けれど、この本にはさらにもう一人、文中には登場しない「職人」の姿が見える。訳者の市川恵里さんだ。ウィルコックスとアンソニーに共通する仕事への姿勢を感じる訳文だった。市川さんはこの本を訳すために、約1年半も製本・修復を学びに通ったそうだ。

 最後に、本文中に出てくる日本の職人の言葉を引用する。「職人は仕事に魂をこめ、自らの技能に大きな誇りをもつ」






(上毛新聞 2012年7月17日掲載)