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視点 オピニオン21
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県立土屋文明記念文学館学芸員  佐藤 浩美 (高崎市保渡田町)


【略歴】県立女子大大学院修了。高村光太郎、水野葉舟に関心を持つ。著書『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後』。


斎藤玉男の治療



◎人格尊重が紙絵制作に



 木洩(こも)れ日の幸福。この季節は、あまりにも明るすぎて文字が読めないから、自然と足は野外に向く。ドイツの哲学者ハイデッガーは、森の中に射す光を「あれがゲディヒト(詩)だよ」と弟に教えたというが、木洩れ日から紡がれる幸福は、人生の詩そのものかもしれない。明るい日射(ひざ)し、立ちこめる草いきれ、ほどほどの人生。この一瞬を永遠のものにできたらいいのに。

 夏の暑さが苦手だった詩人・高村光太郎は、昭和6年8月、時事新報社の依頼を受けて東北の三陸沿岸へと取材旅行に赴いた。この旅は、智恵子との永住の地を求めたものだったともいわれているが、皮肉にもこの間、妻・智恵子の精神異常が発病し、症状は「機関車のように爆進」する。そして、さまざまな治療も功を奏せず、東京南品川のゼームス坂病院に入院した智恵子の主治医となったのが、前橋市苗ケ島町出身の院長・斎藤玉男であった。玉男は、明治32年に旧制前橋中学を、39年に東京帝国大学医学部を卒業し、巣鴨病院長等を歴任した精神医学の権威である。巣鴨病院では、当時一般的だった拘束具の使用を禁止し、患者の室外運動を許可するという最先端の治療を施した。その方針はゼームス坂病院にも引き継がれ、病室はすべて鍵や格子のない個室で、患者の外出も自由だった。入院した時点で、すでに認知力が低下していた妻を、光太郎は週に一度は見舞いに訪れ、智恵子は非常に喜んで話をする。しかし、玉男とは一切口を利こうとせず、入院していた約3年の間「ついぞ彼女の声を聞かずじまい」だったという。それでも、患者の拘束を禁止し、天然素材を用いた手作業が精神安定につながると考えていた玉男の元でなければ、一時はくぎで打ち付けた戸ですら壊して往来に飛び出していた智恵子に、紙絵制作の機会が与えられることはなかったであろう。

 人は、その生の中でいくつもの不条理と遭遇する。智恵子の病は、何の前触れもなく訪れ彼女の意識を奪ってしまったが、そんな生の瀬戸際で、玉男は智恵子の人格を尊重し、光太郎はあるがままの妻を受け入れ、智恵子は残されたすべての時間を紙絵制作に費やした。人は誰かの幸せを我を賭して願う時、ストレスが緩和され、免疫力が高まり、命の火はさらに明るく灯ともるのだという。愛を得た心は生きる根源となり、自分も他人をも守る。そして、理由さえわからない不遇の中に、そんな愛の連鎖が生まれるということを、私たちは記憶の片隅に留めておいてもいいのではないか。愛のやりとり。その輝きを映すかのようにきらめいて、暑い夏の木洩れ日は地上へと降り注いでくる。たわいもない詩を詠い、幸福の在処(ありか)を照らし出して。






(上毛新聞 2012年7月28日掲載)