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視点 オピニオン21
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新島学園中学・高校校長  市川 平治 (高崎市倉渕町)


【略歴】東京農工大大学院修了。14年間の県立高校教諭を経て、家業の林業経営。旧倉渕村議を12年間務め、2002年から4年間、最後の旧倉渕村長。07年から現職。


「人ひとりは大切」



◎生徒の存在価値認める



 昭和天皇がある時、「これは雑草です」と言った侍従に対し、「雑草という植物はありません」と言われたという有名なエピソードがある。学者天皇ともいわれた昭和天皇の学識は、事実、大変に高いレベルだったと聞くが、学識以上に、「雑草という植物はない」という言葉には、人でも、動物でも、植物でも、生命あるもの全てに対する尊厳と深い愛情が感じられて、心に響くものがある。

 私たち、教育に携わる者も、生徒に接する基本姿勢として、しっかりと心に留めておきたい言葉だと思う。

 学業成績、運動能力、個性、家庭、社会環境、他、個々の生徒に与えられた条件は千差万別だが、誰もが掛け替えのない人間として生命を授けられ、そして、能力・適性に応じてこの世に果たすべき役割を負っている。 「雑草という植物はない」のと同じく、不要な人間は一人もいないはずである。

 とかく、学校という世界は、学業や競技の成果、また、日常の行動など、形に表れた部分で生徒を評価し、区別しがちである。それも、ある面ではやむを得ぬことではあるが、教育の根本を思えば、目に見える部分よりも、個々の生徒の本質的な存在価値を認めてやることこそ大切であろう。まさに、「雑草という植物はない」の一言に尽きると言える。

 さて、その名のとおり私たちの学園は、新島襄の教育理念を建学の精神としている。そこで、学生・生徒に対する新島襄の教育観の一端を紹介してみたい。

 まず、同志社創立10周年記念式典でのこと。新島は式辞の冒頭で、自分が渡米のため留守にした間に、同志社を退学になった数人の学生のことに触れ、「ほんとうに、彼らのためには涙を流さずにはいられない。諸君よ、人ひとりは大切である。ひとりは大切である」(『現代語で読む新島襄』より一部抜粋)と述べ、涙にむせんだという。

 また、アメリカで静養中の1885年2月に、英文で書かれた日記には「私がもう一度教えることがあれば、クラスの中で最もできない学生に特に注意を払うつもりだ。それができれば、私は教師として成功できると確信する」(同前)と記されている。さらに、徳富蘇峰に口述筆記させた遺言の中には、「教職員は学生を丁重に扱うこと」(同前)という、教師として究極の一言が残された。

 私たち教職員は、一人一人の生徒の存在価値を大切にし、決して“雑草”という名で一くくりにしてはならない。そして、心から学生を愛し、学生のために祈った新島襄の精神に少しでも近づけるよう努力したいと思う。






(上毛新聞 2012年8月22日掲載)