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視点 オピニオン21
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県立土屋文明記念文学館学芸員  佐藤 浩美 (高崎市保渡田町)


【略歴】県立女子大大学院修了。高村光太郎、水野葉舟に関心を持つ。著書『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後』。


『智恵子抄』の出版



◎枯れることない愛の形



 サボテンの花が咲いた。暑い夏の記憶の欠片(かけら)のように、深紅に力強く咲くその花の命は短い。それでも、棘(とげ)に覆われたこの植物の優しさを垣間見たようで、自分に向けられた愛に思いを馳(は)せる。

 明治45年7月、後に妻となる智恵子に向けた最初の詩「N―女史に」を発表して以来、詩人・高村光太郎は、妻を亡くした後もその想(おも)いを詩に詠い続けている。しかし、その24年間にわたる結婚生活を散文に綴ることは、微細な私生活の報告を求められているようで、書くことの意義を見いだせずに断り続けていた。決して、平温であったとはいえない二人の時間。そして、そこにある愛の真実は、智恵子と自分以外には理解できない、そういう光太郎の想いもあった。その彼が「今は書かう」、「大正昭和の年代に人知れず斯(か)ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事」を書き記しておこうと、散文「智恵子の半生」を綴ったのは、昭和15年9月のことである。一人にとっての真実は万人共通の真実として生きるに違いない、思い出を反芻(はんすう)する中で芽生えたこの思いが最後の決心を促したのだという。

 この「智恵子の半生」を含む詩集『智恵子抄』が発刊されたのは、太平洋戦争開戦を目前に控えた昭和16年8月15日のことである。言論は統制され、検閲によって幾つもの書籍が発売禁止に追い込まれるなか、『智恵子抄』は版を重ね、戦火をくぐり、昭和19年までに13刷を重ねていく。物資は不足し、空襲におびえ、生きていくことが何よりも優先されたその時代に、『智恵子抄』は多くの心を捕らえた。そこに綴られている一組の男女の愛の姿に、口にできない想いを重ねて、人々は生きる糧とした。それは、人と文学の関わり方の典型といってもいいのではないだろうか。

 光太郎が智恵子へ向けた「僕はあなたをおもふたびに/一ばんぢかに永遠を感じる」という一節に恋のささやきを聞き、亡き妻を想う「あなたはまだゐる 其処(そこ)にゐる」という独白に、人は、いたわりの涙を流す。書かれた世界を共有し、言葉を通してもたらされる哀歓の波に心を揺らす。読書は決して孤独な作業ではない。それは、言葉の持つ体温を通じ、何が大切かを確かめ合う営みでもあるのだから。『智恵子抄』。この詩集の出版を、智恵子を売り物にするようで嫌だと、光太郎は長い間拒み続けていたという。しかし、この紅(あか)い詩集は、「たぐいまれなる愛の詩集」と呼ばれ、決して古くなることのない愛の形を語りかけてくる。言葉は人により添い、人は言葉に命を貰って生きる。だから、花にも言葉を与えたくなるのだろう。サボテンの花言葉は、「枯れない愛」だという。








(上毛新聞 2012年9月18日掲載)