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視点 オピニオン21
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県がん患者団体連絡協議会企画委員  篠原 敦子 (前橋市箱田町)


【略歴】前橋市生まれ。『光満つる葉月、切除』が第6回開高健ノンフィク ション賞最終候補に。『その夏、乳房を切るめぐり逢った死生観』と改題し創栄出版より発刊。


卵巣のう腫で知ったこと



◎笑いや夢に救われる



 乳がん手術をして3年たった頃、右の卵巣が異様に腫れていた。乳がん、卵巣がんには共通の遺伝子変異がある。この卵巣のう腫はがんになるかもしれない。切除すべきかどうか迷っていたある日、人間の身体機能の神秘を特集したテレビ番組を見た。これほど見事な構造を与えられている人間が、バサバサと臓器を切り捨ててよいものだろうか。

 その時、笑いが免疫力を上げるという定説を思い出した。が、何を笑えばいいのだろう。歳を経るにつれ、笑えない現実に行き当たるばかりだ。

 そこで、思い出し笑いという手を思いついた。箸が転げても可笑(おか)しい年頃に聴いたカーペンターズやギルバート・オサリバンを寝る前に大音量で流し、昔のオモシロ懐かしい場面を頭に浮かべ、たっぷり笑うことにした。

 石川啄木の歌集『一握の砂』に、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」というのがある。それをまねた男性が「花を買ひ来て妻にぶたれた」と嘆いていた。「どんな魂胆があるのか言いなさい」と問い詰められたという。それだけで15分は笑えた。

 昔出会った人、もう会うこともかなわなくなった人たちの、不器用で生真面目な側面が、青春のただ中で聴いたメロディーにのって次から次へと思い出された。

 これほど愉快な人々と、自分は共に生きていたのか。新鮮な驚きだった。

 寝る前に笑う習慣は、過去をクヨクヨ思い返す悪癖からの脱皮にもなった。文字通り「脱皮」といえば、ザリガニなどの甲冑(かっちゅう)類にとって命がけの試練だ。外敵に襲われるより先に、消耗して死んでしまう例が多い。

 それに引き換え、思い出と笑いにあやされて、湯船で遊ぶようにヌルリと脱皮できる人間とは、この上なく幸いな生き物ではないだろうか。笑い始めてから3カ月、再び検診を受けると、信じられないことに7センチに肥大していた卵巣のう腫が跡形もなく消えていた。

 ある出来事がよみがえった。乳がんが発覚する数カ月前、知人がたびたび夢に現れ、「早く医者に診てもらえ」と熱心に忠告してくれた。それは昔の職場の上司だった。彼とはウマが合わず、私は当時ストレスで不眠症に陥った。その上司が夢の中とはいえ、心配して何度も出てきてくれたのだ。

 一人の人間が生きてきた経過は、周囲との愛憎や信頼関係によって掛け算、割り算され、濃厚な「気配」となってその人を取り巻いている。そして笑いや夢を通して、私たちを救ってくれている。

 卵巣のう腫はそんな確信を私に植え付けてくれる貴重な経験だった。







(上毛新聞 2012年10月4日掲載)