辛抱地蔵 製糸の苦労しのび建立  
谷口 進雄さん(83) 伊勢崎市平和町 掲載日:2007/1/16

「辛抱地蔵」に生花を手向ける谷口さん
「辛抱地蔵」に生花を手向ける谷口さん

 伊勢崎市太田町の三ツ家橋上流の広瀬川左岸にひっそりと立つ辛抱地蔵。その両脇には明治時代に製糸工場で働き、若くして命を果てた「工女」10人の墓が整然と立ち並んでいる。
  郷土史家の故井上俊郎さんとともに初めて現地を視察したのは1994年3月だった。「工女たちの無縁仏の墓が散乱しており、傾いたままで放置され、見た瞬間にこれはひどいと思った。哀れでならなかった」
  墓に戒名はなく、名前や死亡年月日、死亡年齢、出身地が記されていた。10人は市立図書館近くにあった徳江製糸工場(明治十四年創設)で働き、明治20年代から30年代に死亡。病死したとみられ、年齢は17歳から22歳で、出身地は新潟県や東京都、京都府、愛知県などだった。
  「なんとか供養してやりたい」。所属している市内の北地区17町内の住民を対象にした北史談会や相川考古館友の会の有志らが中心となり、視察後すぐに、辛抱地蔵建立委員会を結成した。
  「年季奉公で遠方から伊勢崎を訪れ、故郷に帰ることもできずに若くして命果てた工女たちは大変な苦労をした。冥福を祈るとともに、辛抱を続けてきたことに敬意を表したかった」
  辛抱地蔵の建立に向け、市民らに募金を呼び掛けたところ、339人から450万円余りの浄財が集まった。現地視察した94年の10月には辛抱地蔵の開眼法要を行い、工女たちをしのんだ。
  その後、時が流れ、建立にかかわった有志ら当時のいきさつを知る人の高齢化が進行している。
  「このままでは風化してしまう」。友人で建立に尽力した鹿子島昌雄さん=伊勢崎市大手町=から連絡を受け、昨年11月には建立13周年法要を営んだ。
  「厳しい労働と立ち向かい、辛苦心労に耐えた工女たちの犠牲の上に今の暮らしがある。もちろんこれがすべてではないが、平和な今、多くの人にこのことを理解してほしい」
  辛抱地蔵は工女たちを慰めるとともに「将来までも愛を込めてたくましく生きる老若男女の祈りの場になれば」との願いも込められている。
(伊勢崎支局 宮崎秀貴)