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| JA利根沼田職員 大竹 重光さん |
昨年春、JA利根沼田の大竹重光さん(56)=沼田市薄根町=は十五年ぶりに蚕業技術員(養蚕指導員)に復帰した。前任者が定年を迎え、再び白羽の矢が立った。胸中は複雑だった。養蚕から離れた時、再び戻ることはないという気持ちで、新たな仕事に打ち込んできた。「この年になって、また戻るなんて…」。割り切れない気持ちだった。
だが、養蚕農家を訪ねると、養蚕を守り続けた人たちが温かく迎えてくれた。「またお世話になります」。あいさつするころには、わだかまりは忘れていた。養蚕の風景はあのころと少しも変わっていなかった。
沼田市の養蚕農家に生まれた。祖父の時代、実家は蚕種の製造販売を手掛け、父も蚕種会社に勤めていた。物心が付いたときには、家も地域も養蚕一色。幼年期から養蚕の話を聞いて育ったため、いつしか自分も養蚕の道に進むと思っていた。
一九七〇年、利根沼田養蚕連合会に就職。旧川場村農協に駐在して、養蚕指導を担当することになった。当時、川場村には五百六十九戸の養蚕農家があった。先輩と二人で、桑の栽培管理から稚蚕飼育所への指導などに取り組み、壮蚕期には農家を戸別訪問して相談に乗った。
中山間地は蚕期が短い。平野部では五月五日から十日ごろに掃き立てるのに対し、沼田市周辺は同月二十日すぎ。春蚕の繭出荷が終わらないうちに夏蚕の掃き立てが始まり、夏蚕と初秋蚕、初秋蚕と晩秋蚕の蚕期が次々と重なった。
その上、自然環境は厳しく凍霜害や低温による桑の発芽遅れも不安定要因だった。桑が不足すると桑のあっせんも重要な仕事。夜明け前に西毛地区や埼玉県秩父地方にまで出掛け、桑を集めた。
蚕期が終わり、農家から「今年は取れて良かったよ」と喜ばれるのが、厳しい仕事を支える原動力となった。指導員になった当初、年間百六十dだった同農協管内の収繭量は、八年後には三十d以上増えた。増産率は本県トップクラスだった。
八五年からは旧月夜野町農協への駐在に変わった。そのころ、糸価低迷の影響を受けて、養蚕は衰退を余儀なくされていた。八七年に養蚕連が解散し、農協職員に。九〇年の蚕期が終わると、別部門への異動が決まった。覚悟はしていたが、養蚕から離れるのは寂しかった。
十五年後、再び出番がやってきた。だが、養蚕を取り巻く環境は大きく変わっていた。利根沼田地域の養蚕戸数はわずか五十五戸。担い手は六十代後半から七十代の高齢者で、多くが「自分の代で養蚕は終わり」と話すほどの状況だった。
点在する養蚕農家を訪ね、顔をつないだ。養蚕をやめようか悩んでいる農家には「来年も頑張って」と励ました。これからは繭の付加価値を高めようと、本県オリジナル蚕品種の導入も検討している。「今まで養蚕をやってこられた方のお手伝いをさせてもらう」。そんな気持ちで養蚕と向き合っている。
来春、役職定年を迎える。肩書はなくなるが、養蚕指導員としてもう少し頑張るつもりだ。「これまで養蚕の仕事をやってきたおかげで生活ができ、家族を養うことができた。まだ五十軒からの養蚕農家が残っている。もう少し頑張らなくちゃ」。利根沼田地域は間もなく本格的な冬景色に変わる。雪が舞う中、来春の掃き立て計画が、ゆっくりと動きだしている。(小田川浩道)
ぐんまルネサンス第一部「絹人往来」は今回で終わります。第二部「絹の国の先人たち」(仮題)は来年一月七日からスタートします。
◎養蚕技術指導に助成
県内の養蚕農家数は六百五十戸(昨年度)で、平均年齢は約七十歳。高齢化が進み、本年度は六百戸を割り込む状況にある。
県は旧官営富岡製糸場の世界遺産登録運動でシルク文化に関心が高まる中、産業としての養蚕を守るため、稚蚕飼育や地域での養蚕技術指導に対して助成を行っている。
また付加価値の高い蚕糸業育成のため、県オリジナル蚕品種の繭を原料とした生糸と絹製品を対象に、認定制度を導入。一九九七年の制度開始以来、「ぐんまシルク」として生糸六品種、絹製品百九十一件が認定されている。
一方、県蚕業試験場では蚕の糸に、カブトムシから抽出した抗菌作用のあるタンパク質を含ませて抗菌作用のある生糸を開発中。ガーゼや包帯など医薬品の分野での実用化が期待されている。
(2006年12月10日掲載)
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