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「対青盧」の屋号が記された明治期の蚕種販売台帳
「対青盧」の屋号が記された明治期の蚕種販売台帳

43業者の屋号判明 地元蚕種業の歴史を調査 
    販売地域は県内、近県 伊勢崎・境島村の住民グループ
掲載日・2008/04/07
 蚕種業で栄えた地域の歴史を伝えようと、伊勢崎市境島村の住民グループ「ぐんま島村蚕種の会」(田島健一会長)は、地元にあった蚕種業者とその屋号を調査した。四十七業者について屋号と現世帯主、販売地盤などをまとめている。

 調査は県の「文化の芽」支援事業として昨年六月から実施。一九八八年に解散した島村蚕種協同組合の加盟業者を中心に五十以上の業者について聞き取りのほか、古い蚕具や蚕種販売台帳などを調べた。
 結果をまとめたのはこのうち四十七業者で、四業者を除いて屋号が判明。氏名をそのまま使う例もあったが、「刀水館」「有隣館」「桑緑園」など、三文字で最後に「館」や「園」を付けたものが多い。
 養蚕技術書「養蚕新論」を著した田島弥平は「桑拓園」を用いていたが、江戸後期の文人、頼山陽から贈られた「遠山近水村舎」も一時期屋号として使ったことも分かった。販売地域は、大半の業者が県内と近県を地盤としていた。
 同会事務局の栗原知彦さん(66)は「業者の多くが田島、栗原、関口姓だったため、屋号がほかと区別するブランドの役割を果たした。その中で病気に強い蚕、いい繭がとれる蚕などを作り出していったのではないか」と推測する。
 島村地区では一八〇〇年ごろには既に蚕種が製造されており、明治初期にはイタリアにも直接輸出した。その後、伊勢崎銘仙の生産が盛んになると需要は拡大したが、織物業の衰退とともに役割を終えた。栗原さんは「年配者は屋号を覚えている人もいるが、若い世代はほとんど知らない。結果を記録することで島村の歴史を残したい」と話している。

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